古今集巻第十九 雑躰短歌 1001番
題しらず
よみ人しらず
あふことの まれなる色に おもひそめ わが身はつねに
天雲の はるる時なく 富士の嶺の 燃えつつとはに
おもへども あふことかたし なにしかも 人をうらみむ
わたつみの 沖を深めて おもひてし おもひはいまは
いたづらに なりぬべらなり ゆく水の たゆる時なく
かくなわに おもひみだれて ふる雪の 消なば消ぬべく
おもへども えぶの身なれば なほやまず おもひはふかし
あしひきの 山下水の 木がくれて たぎつ心を
たれにかも あひ語らはむ 色にいでば 人知りぬべみ
すみぞめの 夕になれば ひとりゐて あはれあはれと
なげきあまり せむすべなみに 庭に出でて たちやすらへば
白妙の 衣の袖に おく露の 消なば消ぬべく
思へども 猶なげかれぬ 春がずみ よそにも人に
逢はむとおもへば
逢うことが稀な人を想い初めて我が身はいつも
天の雲のように晴れる時がなく富士の嶺が永遠に燃え続けるように
想うけれど逢うことは難しい、なにであってもあの人を恨もうか
広い海の沖のように深く想う、その想いは今は
無駄になったようだ、流れる水が絶える時がないように想い続け
かくなわ菓子の形のように想いは乱れて降る雪が消えるなら消えるように我が身も消えれば
と思うけれど、この世の身なので未だ止まらず想いは深い
美しい山の下を流れる水が木々の下に隠れてもたぎる、そのような心を
誰に相語ろうか、語るまい、顔色に出せば人は知るだろう
墨で染めたような暗い夕方になったので一人座って、ああ、ああと
嘆きのあまり、どうしようもなくて庭に出て立ちどまっていると
白い衣の袖に置く露が消えるなら消えるように我が身も消えればと
思うけれど、なお嘆いてしまう、春霞が隠すどこか遠くであの人に
逢いたいと思うけれど
雑躰(ざつてい)の巻は、短歌以外を載せています。にも関わらず「雑躰 短歌」の巻題になっているのは写本の誤記らしいです。
この歌は長歌で、575757....577の形式です。
万葉集の長歌は、物語のような話しの展開がありますが、この長歌は、想いが叶わない苦しさを形式的な比喩を繰り返して表現しています。
極端ですが、始めと終わりだけで「あふことのまれなる色におもひそめよそにも人に逢はむとおもへば」でも十分に伝わるように感じます。万葉集のあと、長歌が読まれなくなったのは、和歌の「ものに寄せて心を詠む」というあり方に対して、長歌は冗長で形式的過ぎるためなのでしょう。
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