【レビュー】「そこに、いる」演劇ユニット『あやとり』2023年4月14日14:00下北沢『楽園』※ネタバレあり
演劇であれ、映画であれ、小説であれ、作品世界に触れて、登場人物の置かれた境遇や胸に秘めたる想いに我が身を重ね合わせることはよくある。しかし、それだけでは自己と孤独のなかに深く沈潜して心の琴線に触れることはあっても、閉じられた空間に収束していかざるを得ない。惑星移住計画のために閉じ込められた六人のように。如何にして作品世界を現実世界へ開いてやるのか。何を通じてなのか。何か有効な打開策はあるのか。現実が悪化の一途を辿っていくのに作品が現実へと開かれたからといって、悪化を堰き止められるわけではなく、安易に希望に縋ったからといって、人々に救いが見出されるわけでもない。そして、もちろん、作品が現実となるわけでもない。作品もまた地球への帰還が叶わない六人と同じ宿命を背負わされている。帰っては来れない旅なのだ。だが、それでもなお作り手は問わねばならないし、出来上がった作品そのものも問うことを見る者に要請し続けている。では、「そこに、いる」という演劇においては何が問われているのか。何を通じて、現実世界へと演劇を開いていこうとしているのか。問いへのきっかけとなり得るのは、劇を見る者が、六人いる登場人物の誰かに我が身を重ね合わせるだけではなく、身近にいる誰かに宛てられているように感じられるところにあるように思える。なぜなのか。複数だからという安直な答えではない。順を追って見ていこう。
注目すべきは六人の隠されていた境遇の一部がそれぞれ重ね合わされていた点だ。まるで鎖のように繋がり合っている。親からの虐待を受けていた、あるいは虐待をしてしまった男女。売春と痴漢の冤罪を被った男女。施設へと引き取られていった子供と現在身篭っている子供。共通する両親の交通事故死。失業による貧困と親のいない貧困。親から得られなかった承認欲求を満たそうとして、裏切り者となったり、身体を売ったりする男女。その数珠つなぎとなった重ね合わせが劇を見ている者に、これは自分の身近にいる誰かに繋がっていることだという感覚を懐かせる。個々の境遇が、胸に秘めたる想いがそう感じさせるのではない。抽象された繋がりの部分がそう感じさせるのだ。ひいては自分の身近に限定されない、自分が知らないだけで、「そこに、いる」身近な他者へと繋げていくために。これが第一の「開く」行為である。
序盤の同じ食べ物の奪い合いは、ある意味では互いに重なり合っている一部の境遇を、登場人物それぞれがこれは自分のものだと主張し合っているように思える。自分固有の体験であり、お前とは違うのだと。実際そのように登場人物たちは言い争う。共有しているものがあることに耐えられないのだ。そう考えると彼ら、彼女らが別の惑星の閉じられた場所に来ることを受諾したのも頷ける。お金のためだとは言っているものの、真実は自己のうちに閉じこもりたかっただけなのだ。
それと、彼ら、彼女らが別の惑星の外気を定期的に吸わなければならないのは、国家の実験台になっているからというだけではなく、配分が決まっている食べ物の「分け合い」と同じで、強制的な共有、体験の「分かち合い」の強要であるだろう。外気を吸ったことによる反応の違いとして、否が応でも違いが生まれるのではあるが、自発的な自己への閉じこもりとは別に、六人は公的な閉じ込めにも合っているのだ。閉塞に次ぐ閉塞である。最初の問いに戻らなくてはならない。如何にして「開く」のか。
フィリピンの貧民街で、食べ物を子供たちに分け与えることに自らの傲りと罪悪感を感じたという話が出てくる。六人の強制的な「分け合い」と似ている部分がないだろうか。なぜなら、閉じられた「分け合い」でしかないのだから。自発的になされたものであれ、公的になされたものであれ、閉じられた「分け合い」では悪化してく事態を打開できない。重要なのは、「分け与えようとする」ことではなく、六人の隠された秘密が明らかになっていくにつれて、滲み出してくる既に「分け合われていた」「分かち合われていた」という事実の方なのではないか。しかも、それはこれ以上ないほどの絶望的な状況下においてなされる、滲み出してくる希望によってなのではないか。
そう、結局彼ら、彼女らは裏切り者の謀によって地球に帰ることはできず、死を待つより他ない絶望的な状況下に置かれる。もし、安易な希望を描くために地球へ帰還できていたとしたら、フィリピンの貧民街の話のように意図的で閉じられた「分け合い」にしかならなかったのではないか。希望とは絶望から抜け出そうとして望まれるものではない。救い難い状況下においてなお、抜け出せない闇のなかで、自らを「開く」こと、「開かれていた」ことに気づくことなのではないか。鎖のように繋がり、重ね合っていることを受け入れることこそが唯一の希望と言える。「俺たち、そろそろ自分を許してもいいんじゃないか。解放してもいいんじゃないか」と語られるように自己を許し、解放することが、他者と重なり合っている部分がある以上、他者をも許し、解放することに繋がるのではないか。それこそが希望だろう。安易な希望ではない。「夢が情報の処理なのに見た夢を記憶して蓄積してしまう」ような堂々巡りのなかで、閉じられていくもののうちで、既に「分け合われている」ものがあることを受け入れること。
物語の終局で六人が食べ物を「分け合う」のだが、そのときはじめて「分け合う」ことに六人が同意したわけではない。既に「分け合われていた」ことに同意したのだ。既に「選ばれし者」として彼ら、彼女らは「分け合われていた」。その点に気づくこと。それが「そこに、いる」というタイトルに込められたもうひとつの意味ではないのだろうか。第二の「開く」行為である。まさに最後の晩餐なわけだが、裏切り者を指し示す最後の晩餐なのではなく、「そこに、いる」においては、裏切り者を受け入れた後の最後の晩餐なのだ。裏切り者が「そこに、いる」ということでもない。事態はその逆なのだ。通常、「選ばれし者」とは、キリスト一人を指している。「そこに、いる」においては、裏切り者=ユダを含めた六人全員、ひいては身近にいる他者すべてがそれぞれに「選ばれし者」となる。「選ばれし者」は「そこに、いる」。
最後に、作品世界の外の話になるが、プレゼントチケット(一人が二枚分のチケット代を支払い、一枚を金銭的にチケットを購入することができない方へプレゼントする)の試みもまた、しっかり作品世界と通底している試みと言えるだろう。なぜなら、我々は既に「分け合われている」、そして、「そこに、いる」のだから。こうした「開く」試みは埋もれさせてはいけない。第三の「開く」行為。
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