【通史】平安時代〈3〉藤原北家の台頭
◆平城天皇(第51代、位806~809年)
↳桓武天皇の後を継ぐも病気がちで3年で退位
↳平城太上天皇(平城上皇)として平城京に退く
◆嵯峨天皇(第52代、位809~823年)
810年:薬子の変 →藤原薬子が兄藤原仲成と平城上皇の重祚を画策
↳平城上皇が平城京への遷都を宣言したため、謀反認定
↳藤原仲成を逮捕・処刑、薬子は服毒自殺、平城上皇は出家
(影響)①蔵人所の設置 →政治上の機密文書などを取り扱う
↳初代蔵人頭:藤原冬嗣 →藤原北家の台頭・躍進
②藤原式家の没落
(その他業績)中央政治の整備・強化を図るために改革を実施
①「検非違使」の設置 →都の警察や裁判の業務をつかさどる
②「弘仁格式」を編纂 →法制の整備を図る
◯桓武天皇の後を継いだのが息子の安殿親王です。平城天皇として即位しました。しかし、平城天皇は病気がちであり、わずか3年で弟の神野親王に譲位し、自らは上皇となって旧都である奈良の平城京に退いてしまいました。兄から皇位を譲り受けた神野親王は嵯峨天皇として即位します。
◯ところで、平城天皇は皇太子の時代から藤原薬子という愛人女性を寵愛していました。薬子は桓武天皇が長岡京に遷都したときに造営長官を務めた藤原種継の娘です。しかしこの薬子は身持ちが悪い女性(ふしだらな女性)として醜聞が流れ、桓武天皇によって宮廷から追放されていたのです。何があったのかというと、平城天皇は安殿親王時代に妃を迎え入れましたが、その女性というのが藤原薬子の長女なのです。要は薬子は安殿親王からすれば義理の母親にあたるわけです。安殿親王は娘の輿入れに伴って付き添いとして宮仕えを始めた義母の虜となり、二人は愛し合うことになりました。これを知った桓武天皇は怒り、薬子は宮廷から追放されたというわけです。
◯ところが、桓武天皇の死後、安殿親王が平城天皇として即位すると、再び薬子を宮廷に呼び戻します。そして平城天皇の寵愛を受け、典侍(宮中女官で2番目に高い位)、続いて尚侍(宮中女官の最高位)と、次々と高い役職が与えられ出世を遂げます。しかし、薬子の宮廷生活は前述したように平城天皇が健康上の理由から嵯峨天皇へ譲位したことによって、わずか3年で終了します。失望した薬子は兄、藤原仲成と謀略を図り、平城上皇を再び天皇にすること(重祚)を画策します。
◯平城上皇自身も、平城京に退いたあと体調が回復したこともあり、薬子にたきつけられて天皇の座に返り咲こうという意欲を見せます。そしてこのこの当時、上皇は天皇とほぼ同等の権威を持っていたことから、上皇の権力を誇示するために旧都平城京から勅令を下して政治を動かし始めます。そのため、政令が上皇方と天皇方の両方から出る状態になり、政治に混乱をもららします。まるで朝廷が二か所存在するような二朝対立状態になったことから、この対立を「二所朝廷」といいます。
◯この動きを警戒した嵯峨天皇は「蔵人所」を設置します。蔵人所とは、政治上の機密文書などを取り扱う役所で、いわば天皇の秘書的な機能を持ちます。平城上皇側に重要な情報を漏らさないように、情報の管理を一元化したわけです。なお、蔵人所の長を「蔵人頭」といいます。この蔵人頭に任命されたのが藤原冬嗣という人物です。
◯810年、平城上皇は都を強引に平城京に戻そうとして命令を下し、奈良に宮殿などを建造させ始ます。こうなると嵯峨天皇も黙っているわけにはいかず、謀反であるとしてついに立ち上がります。そして坂上田村麻呂を送り、薬子の兄である藤原仲成を逮捕して処刑、薬子自身も服毒によって自害しました。平城上皇は剃髪して出家しました。この一連の政変劇を薬子の変(平城太上天皇の変)と呼びます。
◯藤原薬子や藤原仲成は「藤原式家」の家系で、これまで藤原氏の中でも「藤原式家」が権勢を振るってきましたが、この薬子の変により没落します。一方、初代「蔵人頭」に任命されて嵯峨天皇の腹心として貢献した藤原冬嗣の子孫である「藤原北家」が一番の権力を持つ家系となって政治に深くかかわるようになります。藤原北家はその後も繁栄し、平安時代における藤原氏の摂関政治への第一歩を築いたのです。
◯なお、嵯峨天皇は中央政治の整備・強化を図るために「蔵人所」だけでなく、平安京内の治安維持のために都の警察や裁判の業務をつかさどる「検非違使」という役職も置きました。桓武天皇が設置した勘解由使(国司交代の際の引き継ぎを審査する役職)や征夷大将軍などもそうですが、これらの役職は、その時々の実情に応じて定められた、律令による規定のない役職です。そのため「令外官」と呼びます。
◯また、これまで国を運営する規範になっていた律令は、制定からすでに100年を経過し、次第に実情にそぐわないところも出てきていました。そのため、その都度法令を発して律令の補足や修正を行って実情とのギャップを補ってきました。令外官の設置などもその一環です。これまでに出された律令の補足や修正を「格」、具体的に国を動かす細目を「式」と呼び、二つを合わせて「格式」と呼びます。しかし、格や式が増えすぎてきたため、嵯峨天皇はそれらを整備しました。嵯峨天皇が編纂させた格式を「弘仁格式」といいます。その後も清和天皇による「貞観格式」や醍醐天皇による「延喜格式」が編纂されますが、この三つを総称して三大格式と呼びます。