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【通史】平安時代〈8〉承平・天慶の乱(2)藤原純友の乱

「承平・天慶の乱」のうち、前回は関東で起きた平将門の乱について説明しましたが、ほぼ同時期に瀬戸内海で起きた反乱が藤原純友の乱(939~941年)です。

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藤原北家に生まれるが……

藤原純友は天下の藤原北家の出自でしたが、父の良範を早くに亡くして後ろ盾を失ったため、都での出世が望めなくなります。前回の平将門もそうであったように、当時の貴族社会では努力や実力だけで出世競争を勝ち抜くことは不可能です。父親の政治的影響力によって子供の出世が決まる、そんな時代です。

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海賊討伐の経験を買われて伊予掾に

◯932年頃、純友伊予掾に(伊予=現在の愛媛県、=国司としての位)任じられます。律令制下において官職には四等官制が敷かれていましたが、「掾」は国司の三等官で従七位下ですから(国司の四等官である守・介・掾・目の三番目)、国司の中でも身分の低い役職です。

◯実は、伊予守には純友の父の従兄弟にあたる藤原元名が任官していました。国司の基本的な仕事は任された土地から税を徴収することです。しかし、この当時の国司の中には、任官しても自らは現地に赴かないで代理の人間を派遣する者も多くいました。これを「遙任」といいます。そして代理人のこと「目代」といいます。純友は親戚の藤原元名の代理として伊予掾に任じられたようです。

◯純友が選ばれた理由は、純友に海賊討伐の経験があったからです。純友の父はもともと大宰少弐(大宰府の次官)でした。大宰府朝鮮半島や唐などとの貿易の要所であるため、そこに来航する商船を狙った海賊が頻繁に出没する地域です。純友は、父と大宰府にいた頃に海賊の討伐業務で活躍した経歴がありました。

◯この頃、伊予国の北に広がる瀬戸内海では海賊被害が頻発して治安が悪化しており、税として都へ運ばれる租税や官物が強奪されたり、国衙(国司の役所が置かれたところ)が襲われて貯蔵された米が掠奪されたりするなど、朝廷を困らせていたのです。瀬戸内海九州と京都を繋ぐ物資輸送の大動脈ですから、海賊に目を付けられていたというわけです。

◯そこで、海賊討伐の経験を積んでいた純友に白羽の矢が立てられたのでしょう。純友としても、このまま出世の見込みもなく都で無聊を託っているくらいなら、地方へ下って一旗揚げようと決意したのだと思われます。現地に赴いた純友は、任期中の4年間、瀬戸内海に跳梁跋扈する海賊たちを次々に追捕し、期待された活躍を見せます。

海賊団の頭領として生きていくことに

◯そして、935年、藤原元名伊予守としての任期が終了し、それに伴って純友の伊予掾としての任期も終わりを迎えることになります。純友としては、これまでの海賊制圧の功績が認められて朝廷から官位の恩賞を授かることを期待していたことでしょう。しかし、朝廷から恩賞が与えられることはありませんでした。

◯これに不満をもった純友は腹を括ります。どうせ朝廷に貢献しても昇進の見込みもないのなら、このまま帰京せずに伊予国に住み着き、自ら海賊として生きていこうとを決めたのです。

◯実は、海賊平定の職務に当たる間に、純友は疑問を持つようになっていました。純友が捕えた海賊たちの多くは、かつて「舎人」(皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事した者)として朝廷内で働いていた、瀬戸内海一帯の富豪層の出身であったといいます。しかし、朝廷の財政難によって人員削減が行われ、多くの者が職を失いました。いわばリストラされた元公務員たちなのです。つまり、生きていくために海賊にならざるを得なかったというわけです。誰だって犯罪者として役人に追われながら暮らしたいわけがありません。朝廷の政治がそういう人間をたくさん生んでいるのです。

藤原北家の家系に生まれながらも早くに父を失ったために都での出世が見込めず、地方に流れざるを得なかった純友もいわば没落貴族です。彼自身、朝廷の政治に対する不満を燻らせていたので、純友と背景は違えど彼らの不遇は痛いほど分かりました。そして、いつしか海賊勢力とのつながりを持つようになっていきました。純友はその人脈を生かして生きていくことを選択したのでした。

◯海賊として生きていくことを決めた純友は、早くも936年頃までには海上交通の要衝である日振島を根拠におよそ1,000艘を組織する海賊の頭領となっていたといわれています。海賊平定を通じて純友の武勲は瀬戸内海に響き渡り、その名を知らない者はいないほどの知名度を誇っていたため、強い影響力をもっていたのでしょう。それにしても、ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのことです。海賊団を退治する役人だった人間が、やがてその海賊団の頭領として海賊行為を指揮するようになったのです。

藤原純友の乱のきっかけとなった事件

◯そして939年12月、いよいよ藤原純友の乱の契機となる事件が起こります。きっかけは、藤原純友と関係の深かった備前国(現在の岡山県)の海賊・藤原文元が、備前国司として赴任してきた藤原子高と対立を深めて紛争を起こし、純友に支援を求めてきたことです。対立の原因は不明ですが、当時は国司が不当に税金を搾取し、その一部を横領するといった行為が当たり前に行われていましたので、そうした悪行に起因するものだったと予想されています。

藤原文元の支援要請に応じた純友は、海賊団を率いて伊予から備前に遠征します。この動きを知った藤原子高は妻子を連れて京へと逃亡を図りましたが、摂津国(現在の大阪と兵庫)で捕らえられます。子高は耳を切られ鼻を削がれるなどの残虐な暴行を受けた後に子供とともに殺され、妻は略奪されました。

◯朝廷の役人を殺害したことで、藤原純友は朝敵(朝廷に敵対する勢力)となります。この事件が、藤原純友の乱の始まりです。

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「平将門の乱」の平定を優先して純友には懐柔策

◯しかし、ここで朝廷は純友討伐軍を送るのではなく、大きく譲歩することを決めます。940年1月、なんと国賊である純友従五位下に昇進させ、さらに藤原文元にも官職を授けると連絡してきたのです。実は、この頃はちょうど平将門が関東全域を制圧して「新皇」を称した時期です。朝廷は東国平将門の乱の鎮圧に兵力を集中させています。しかも、現在純友がいる摂津国は京の都と目と鼻の先です。このまま上洛(京都に入ること)されたら朝廷はひとたまりもありません。焦った朝廷は純友の懐柔策を選択しました。

純友は朝廷の提案を呑むことに決め、上洛することはしませんでした。しかし、これで海賊行為そのものをやめるわけではありません。純友としても、朝廷が東国の反乱に手一杯であるために一時的に懐柔しておこうという魂胆であることは百も承知です。このようにして手に入れた官位などハリボテのように脆いものです。だったら、このまま海賊行為を続けて支配領域を広げ、さらなる条件を引き出そうと考えたわけです。

◯そして、純友は淡路国(現在の兵庫県)の国府(国司が政務を執る施設が置かれたところ)を襲撃、また純友の郎党の藤原文元備前国備中国(ともに現在の岡山県)の国府を、同じく郎党の藤原三辰讃岐国(現在の香川県)の国府を襲い、純友の支配下にある海賊団によって瀬戸内海のほぼ全域が掌握されます。

「平将門の乱」を平定したことで純友討伐に転換

◯こうした状況を静観するしかなかった朝廷でしたが、940年2月、ついに平将門平貞盛藤原秀郷らに討たれ、関東での反乱が鎮圧に向かうと朝廷は掌を返し、純友の討伐を計画し始めます。そして6月、将門の討伐に向かっていた遠征軍が帰京すると、朝廷は小野好古追捕使に任命して総大将とし、次官に源経基をつけた討伐軍を派遣しました。朝廷がまず標的としたのは、備前国・備中国・備後国(ともに現在の岡山県)を実効支配していた藤原文元です。8月、この地域の制圧に成功すると、藤原文元藤原三辰を頼って讃岐国(現在の香川県)に逃れてきます。

◯純友は、藤原文元藤原三辰に加勢するべく、8月中旬、400余艘の兵船で編成した海賊団を率いて讃岐国に入り、海賊軍の先頭に立って戦います。

◯その後、純友率いる海賊団は讃岐国から瀬戸内海を西へ西へと移動し、10月には安芸国(現在の広島県)を、11月には周防国(現在の山口県)を、そして12月には土佐国(現在の高知県)を次々と襲撃します。このように、朝廷軍側は瀬戸内海を股にかけた神出鬼没の戦いを繰り広げる純友に翻弄され、苦戦を強いられます。

◯しかし、ここで純友は部下から思わぬ裏切りに遭います。朝廷軍との圧倒的な兵力差を前に、最終的に勝ち目はないと考えた海賊団幹部の藤原恒利が朝廷軍へ寝返ったのです。藤原恒利讃岐国で朝廷軍の先導を行い、藤原三辰が捕縛されます。そして処刑されたのち、京都で曝し首にされました。これによって純友の海賊団が弱体化してしまい、情勢が朝廷側に有利に傾いていきます。941年2月には、純友の本拠地である伊予国が落とされてしまいます。

「藤原純友の乱」終結へ

◯本拠地の伊予を失った純友は、5月、意表をついて博多湾に上陸し、西国政治の拠点である大宰府を奇襲し、占拠しました。純友軍には、国司と対立していた豊後国(現在の大分県)や日向国(現在の宮崎県)の九州の有力豪族も加勢しました。

◯しかし、純友の勢いもここまででした。朝廷軍がこれまで苦戦を強いられてきたのは、瀬戸内海を縦横無尽に逃げ回る海賊が相手だったからです。しかし、今回の純友は大宰府という明確な攻撃拠点を構えており、こうなると得意の攪乱戦術は使えません。力と力の正面衝突となれば、圧倒的な軍勢を誇る朝廷軍に対して勝ち目はありません。朝廷軍は海陸両面より追撃を開始し、純友軍を壊滅に追い込みます。

◯純友は息子の重太丸とともに本拠地である伊予国へと落ち延びますが、もはや万事休す。6月、伊予警固使(令外官の一つ。西国の賊徒・凶悪犯を逮捕するために派遣される役職。東国の押領使・追捕使に該当する)の橘遠保に捕縛され、斬首されました。そして、純友の首は京へ送られます。こうして藤原純友の乱は終結しました。

◯翌942年の3月に論功行賞が行われ、朝廷軍の総大将小野好古は太宰大弐・参議・従三位に、次官の源経基は太宰少弐・右衛門権佐・正四位にそれぞれ叙されました。

◯なお、源経基はもともと清和天皇の第六皇子として誕生しましが、臣籍降下によって「源」姓を賜りました。清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称しましたが、中でもこの経基流清和源氏が最も繁栄します。一般に「清和源氏」というと、源経基を祖とする経基流清和源氏の家系を指します。その子孫には源頼朝・足利尊氏・武田信玄・今川義元・明智光秀などそうそうたる顔ぶれが揃っています。なお、元内閣総理大臣(第79代)の細川護熙氏もこの清和源氏の末裔です。

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