【通史】平安時代〈21〉僧兵による強訴の始まり
「天下三不如意」
「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞわが心にかなはぬもの」と、白河院も仰せなりけるとかや。
◯これは『平家物語』の第一巻に出てくる一節です。絶対的権力を誇り、従来の慣例に縛られることなく思いのままに専制政治を行った白河法皇にも、自らの意のままにならないもの三つあり、それを嘆いたというのです。これを「天下三不如意」と呼びます。
◯一つ目が「賀茂川の水」。古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川がもたらす水害を指しています。二つ目が「双六の賽」。盤双六の二つのサイコロが出す賽の目のことです。たしかに、いくら権力があっても自然と運ばかりは人智の及ぶところではありません。しかし、この「賀茂川の水」や「双六の賽」は最後の「山法師」を引き出すための例です。白河法皇が最も手を焼いたのが「山法師」です。
◯「山法師」というのは比叡山延暦寺の「僧兵」のことを指しています。「僧兵」とは簡単にいうと「武装したお坊さん」です。は袈裟頭巾で頭を包み(寡頭姿)、腹巻と呼ばれる簡易な鎧の上に法衣をまとい、高下駄を履いて、薙刀を武器として持っていたのが特徴で、僧であるのにさながら兵士のような出で立ちであったことから「僧兵」と呼ばれているのです。
◯「僧兵」として最もよく知られるのが、「弁慶の泣き所」や「内弁慶」、「弁慶の立往生」といった言葉の由来にもなった身長2m強の大男、武蔵坊弁慶です。弁慶は比叡山での修行ののち、京都で源義経の家臣として仕えるようになり、源平合戦で多くの伝説を残しました。その武勇は「義経記」や「弁慶物語」などによって語り継がれています。
◯「僧兵」を抱えていたことで特に有名な寺院が、奈良の興福寺、東大寺、京都の延暦寺、滋賀の園城寺(三井寺)などです。とりわけ興福寺と延暦寺は、合わせて「南都北嶺」と呼ばれ恐れられました。「南都」というのは、平安京から見て奈良の平城京が南に位置するので、奈良にある興福寺を指す言葉です。「北嶺」の「嶺」は「山頂」という意味ですので、つまり「北にある山頂」ということです。比叡山が平安京の東北に位置したことから、比叡山の延暦寺を指す言葉として使われました。
なぜ僧侶が武装することになったのか
◯では、そもそもなぜ僧侶が武装することになったのかというと、武士の登場と同じ理由です。広大な寺領を持つ大寺院は、自衛のために武装し始めたのです。
◯白河上皇への私的奉仕と引き換えに「院近臣」となった中・下級貴族が、白河上皇の特別の取り計らいを受けて受領に任じられるようになったという話はすでにしました。
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白河上皇の権威を後ろ盾に受領が寺領に強硬姿勢
①寺領であっても経営を成していない荒廃田は公領に収公
◯その際に院近臣受領の典型として例に挙げたのが、高階為章という人物でした。為章は、たとえ寺社の所領である荘園であっても、荒廃して経営を成していないものについては公領として収公(領地などを権力が没収すること)するなど、公領の確保、荘園の整理のために任国の荘園に対し強行的な姿勢で臨みました(受領は、荒廃田は収公して公領に再編したい)。このように、白河上皇の権威を後ろ盾として得た受領は、強い態度で荘園整理に臨むようになります。
②大寺社の末寺・末社の僧侶・神人の横暴に対抗
◯また、これまで寺社の荘園は免税特権を得るなど朝廷から特別な保護を受けてきました。これは、寺社は鎮護国家の役割を担っていることから、その堂塔の維持管理費等に充てる必要を考慮してのことです。寺社側も鎮護国家の論理を盾にして、朝廷からさまざまな保護・特権を引き出して独自の経済基盤を確保し、独立性を強めてきました。
◯しかし、こうして朝廷から保護を受けていることをいいことに、各地に存在する延暦寺や興福寺等の大寺社の末寺・末社の僧侶(悪僧)や神人(下級神職者)たちは、寺社に集積された年貢などをもとに地域の開発領主たちに対して積極的に出挙(稲や財物を貸しつけて利息を取ること)を行い、債務不履行となった開発領主の所領を寺社の荘園に編入するという非道、横暴を働くようになっていました。寺領に編入されると徴税できなくなるばかりか、それまで受領の管轄下にいた開発領主がそれらの寺社に所属する「寄人」(受領の支配下にありながら、他のや寺社に所属して二元的支配を受ける百姓)や神人となってしまいます。
*なお、農民は国から税を課せられますが、僧は免除されます。無制限に僧が増えることは租庸調に支障をきたすため、以前は出家に厳しい制限を設けて管理していました。しかし、そのうち大寺院の寺領が拡大していく中で、その管理と雑務処理のために多くの僧が必要になりました。これに従い、出家に対する国の統制もゆるみ、生活の苦しい農民が出家する例が増加しました。かつては出家してから一人前の僧になるまでに2年間の修行が必要とされていましたが、それも簡略化され、僧侶の質が低下していきました。
*三善清行(847-919)の『意見封事十二箇条』(914年の上奏文)には、
「諸寺の出家者数は年間二・三百人もあり、その半数は邪濫の輩である。
近頃は諸国の百姓で課役や租調を逃れるために自分で剃髪し、法衣を着る者が多くなり、全国人民の3分の2は皆坊主である。かれらはみな家に妻子を持ち、生臭ものを食べ、姿は僧であるが心は屠殺人の如し」
と記されています。すでに2世紀も前から僧侶の質の低下は問題視されていたのです。
◯これは受領にとって看過できない事態です。これまでは国司も寺社が相手だとなかなか強く出られませんでしたが、院政期になって寺社との紛争の増加が政治的・社会的現象として現れたというのは、やはり受領が白河上皇の権威を後ろ盾として得たことで強い態度で荘園整理をするようになったからでしょう。特に延暦寺や興福寺などの大寺院は地方に広大な荘園を所有していますから、必然的に延暦寺や興福寺の末寺・末社の僧侶や神人との衝突が増えることになります。こうして大寺社は自衛のために自領の荘民や下級僧侶に武装化させて、これがのちに「僧兵」と呼ばれ、寺社の武力を構成するようになっていくのです。
1093年:興福寺の神木入京
◯まずは興福寺との衝突についてです。高階為章の父・高階為家も白河上皇の院近臣を務めた人物ですが、近江守(近江=現在の滋賀県)として在任中の1093年に、春日大社の神人(下級神職者)を暴行したとして興福寺の衆徒(大寺院に居住して学問・修行の他に寺内の運営実務にあたった僧侶。堂衆や大衆ともいう)から訴えられます(興福寺と春日大社とは、ともに藤原氏の氏寺・氏神という近い関係にありました)。その際、興福寺は傘下の春日大社の神木(春日神木)を担いだ興福寺の衆徒(「奈良法師」と呼ばれます)が内裏に押しかけました。これが神木入京(神木動座)の始まりです。
*なお、興福寺はかつて山階寺と呼ばれました。藤原氏の権勢を笠に着て、訴訟を起こせばどんな無理難題なことであっても押し通すことができました。そこで、理不尽な要求を押し通すことを「山階道理」というようになりました。『大鏡』にも、「いみじき非道の事も、山階寺にかかりぬれば又ともかくも人もの言はず、山階道理とつけておきつ」と書かれています。
1095年:延暦寺の神輿山上舁上げ
◯次に延暦寺との衝突についてです。1095年、美濃守(美濃国=現在の岐阜県)・源義綱は延暦寺が美濃に有していた荘園を宣旨(天皇の意向や朝廷の命令を伝達する文書)によって収公しました。これは、源義綱が朝廷に訴えたためです。朝廷に訴えるということは、おそらく延暦寺に所属する美濃国の寺僧が、受領の管理下にある荘園を汚い手口で寺領に編入したのだと考えられます。なお、義綱は前九年合戦(1051~62年)で活躍した源頼義の次男です。
◯朝廷は延暦寺に事情説明が求めましたが、延暦寺側は「案内を知らざる由」つまり関与していない返答しました。これを受けて朝廷は美濃国の寺僧の行為は受領の管理下にある土地の私的な侵害行為であると見なし、追討宣旨を出します。この宣旨に基づき義綱は悪僧の追捕(犯罪者などを追いかけて捕えること)に乗り出しますが、その際に悪僧たちと小競り合いになり、円応という1人の僧が矢に当たって死んでしまいました。
◯延暦寺側はこれに怒り、傘下の日吉社(現在の日吉神社)の神輿を押し立てて都に雪崩れ込み、義綱の流罪を要求しました。日吉社は比叡山の麓にあり、天台宗の開祖・最澄の頃から延暦寺との結びつきが強い神社です。
◯これが初の日吉神輿入洛で、「神輿山上舁上げ」と呼ばれます。延暦寺の僧兵は「山法師」と呼ばれ、「奈良法師」同様、乱暴な僧兵として知られました。
現代の日吉大社の神輿
◯義綱の主である時の関白・藤原師通は、「宣旨に基づく追捕行為の中で流れ矢に当たって死んだのだから義綱に罪は無い」として延暦寺側の要求を却下し、源頼治(大和源氏)を派遣して鎮圧に向かわせました。源頼治に率いられた武士団は神輿の神威にひるむことなく、容赦なく延暦寺の悪僧たちに矢を放ちます。矢は神輿や神人に当たって死傷者を出し、延暦寺の悪僧・日吉社の神人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ帰りました。
◯こうして延暦寺の僧兵たちを撃退することに成功しましたが、延暦寺側は
朝廷を呪詛します。『百錬抄』という公家の日記などの諸記録を抜粋・編集した歴史書(鎌倉時代後期に成立したと見られる)には、「山僧五壇法を行い國家を咒咀し奉る」とあり、延暦寺は全力で朝廷を呪ったそうです。
◯それから約3年後の1099年、関白・藤原師通が悪瘡を患い、38歳で急逝します。これを延暦寺が「神輿に矢を放った神罰が下ったのだ」と喧伝したことにより、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののきました。比叡山延暦寺は天台密教の総本山ですから、呪詛を受けることは精神的な脅威であったと思われます。結局、源頼治は佐渡(=現在の新潟県の佐渡島)に流されることとなり、延暦寺の山法師をつけあがらせる結果となり、強訴は増加していくことになります。
◯このように寺社の僧兵や神人が神輿や神木を担いで都へ大挙して押し寄せ、仏罰・神罰を振りかざして為政者に対して無茶な要求を押し通そうとすることを「強訴」といいます。強訴自体は院政以前にも行われていましたが、院政以前の90年間で4回しかなかったものが、白河・鳥羽・後白河の三代の院政期になると60回以上にも及びました。3代にわたって院政を行い、法と慣例を無視して絶対的な権力をふるった白河法皇も、僧兵にだけは手を焼いたのです(なお、鎌倉時代には約100回、南北朝時代には約40回、室町時代には約30回の強訴が行われています)。
「僧兵」という言葉は江戸時代に現れたもの
◯ところで、「僧兵」という言葉は江戸時代に現れたものです。この時代には「大衆」「衆徒」「堂衆」「悪僧」といったり、様々な呼び方がされています。
◯当時の大寺社には学問・修行を専業とする上級の僧侶と、その僧侶の世話役の下級僧侶がいました。上級僧侶たちは「学生」「学侶」「大衆」「衆徒」などと呼ばれました。彼らはあくまで学問・修行に専念し、寺社の管理する荘園の出身者で構成される「堂衆」と呼ばれる下級僧侶たちが食事や掃除、洗濯などの身の回りの世話をします。しかし、「堂衆」もしだいに力をつけていき、結託して組合のようなものを作るようになります。延暦寺ではたびたび「大衆」「衆徒」と「堂衆」との間で武力による争いが起こりました。
◯しかし、一方で、「堂衆」を含む大寺社の抱える僧侶全体を「大衆」「衆徒」と呼ぶ場合もあるようです。また、「大衆」「衆徒」「堂衆」の別にかかわらず、武力にすぐれた僧を「悪僧」と称しました。つまり確たる定義がないため、今はひっくるめて「僧兵」ということが一般的になっています。
その他の強訴の理由
◯このように、強訴は、各地の寺領荘園を巡って受領との間に衝突が起こった場合に、寺社の本末関係を通じて朝廷に訴える場合が多いですが、それ以外にも院による人事介入を巡る反発によって起こる強訴もありました。
◯大寺社が神威を振りかざして増長してくることに、院が何とかして自らの統制下に置こうと試みるのも当然です。その手段の一つが人事への介入です。しかし、院が大寺社内の人事に介入してくることに反発する強訴が盛んに行わるようになります。
◯なお、興福寺や延暦寺以外にも、園城寺(三井寺)の僧兵団(寺法師と呼ばれました)や東大寺の僧兵団などがよく知られています。