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岩波少年文庫を全部読む。(11)宮澤賢治のことを「賢治」と呼ぶのが苦手。 宮澤賢治『風の又三郎』

(初出「シミルボン」2020年12月10日

平常→非常→新たな平常

拙著『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくまプリマー新書)でも書きましたが、もっともシンプルなストーリーとは
「平常→非常→新たな平常」
という構造をしています。

そのなかでも代表的なのが、

自分が動いて「旅をする=旅から帰る」という形と、逆に
人が自分のところにやってきて自分が「客を迎える=客を送る」という形

のふたつです。このいずれかを採用すれば、物語が終わったときに「ちゃんと終わった感」、「どっとはらい感」が出てくるわけです。

 児童文学における「旅をする」物語はルイス・キャロル『不思議の国のアリス』でしょう。

 トールキン『ホビットの冒険』の副題は「ゆきてかえりし物語」There and back again)で、新たな平常へと「かえる」こと(back)が「とっぴんぱらりのぷう」感のもとになるわけです。

客という非日常

 これにたいして、「客を迎える」物語の児童文学における代表が、「風の又三郎」だと思います。

 『風の又三郎』の分教場の子どもたちも、筒井康隆『時をかける少女』(1967。角川文庫)の芳山和子も、多和田葉子『犬婿入り』(1993。講談社文庫)の北村みつこ先生も、桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet』(2004。角川文庫)の山田なぎさも、「客」を迎える視点人物たちは、「平常」のなかで客(高田三郎=風の又三郎?、深町一夫=ケン・ソゴル、太郎さん=犬男、海野藻屑=人魚?)を迎えています。

 『竹取物語』『E.T.』の物語構造がまさにこれです。

 本書所収の「セロ弾きのゴーシュ」は宮澤賢治の童話のなかでもとくに好きな作品ですが、これになると、主人公のゴーシュは三毛猫、郭公、狸の子、野鼠と、4晩にわたって違う客たちを迎えては送ります。落語の「権兵衛狸」を思わせます。

 余談ですが、人類は2020年、COVID-19の世界的流行という「客=非日常」にあたって、どこを「新たな平常」の落としどころとするか、一所懸命探っているところです。

 ちなみに、『星の王子さま』の飛行士は、遭難という「旅=非日常」のなかで王子という「客=非日常」を迎えるので、やや特殊ですね。

風の又三郎と「風野又三郎」

 9月のはじめ、田舎の学校に風とともにやってきた転校生・高田三郎は、ごく短い滞在を経て姿を消してしまいます。三郎が超自然的な風の精・又三郎であるかどうかは、最後まで宙吊りにされています。物語の中心部分は、嘉助たちクラスの子どもたちの視点で語られているからです。
 この宙吊りは、ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』で述べた「自然的解決と超自然的解決とのあいだのためらい」を生む点で、規範的な幻想文学の(じつは数の上では珍しい)作例ということになります。

 じつは「風の又三郎」には、その原型となった「風野又三郎」という作品がありました(『宮沢賢治全集』第5巻所収、ちくま文庫)。両者の執筆時期は七年ほどずれていると見られています。そして『風の又三郎』に比べて知名度の低い「風野又三郎」では、又三郎ははっきり超自然的な風の精であると読めるのです。

風や国を擬人化する

 いや、〈超自然的な風の精〉と書きましたが、じつはこの「風野又三郎」は大気循環(これは「グスコーブドリの伝記」の主題でもある)を子どもにわかりやすく説明する科学読物なんですね。だから〈超自然的な風の精〉というより、風の擬人化といったほうがいいかもしれません。

 さて擬人化といえば、「風又三郎」のほうにも出てきます。
 嘉助たちが通う小学校の先生について、歴史人類学者・大室幹雄が意外な指摘をしているのです。

素直に読めば、嘉助たちの先生の言葉づかいになにかこちらをぎくりとさせないではいない特徴のあるのに気づかれるはずである。何というか、あまりにも出来あがりすぎた標準語なのだ。
そのうえこの先生、男ではあるらしいが、年齢も容貌も背恰好もまるでわからない。
〔…〕念のためいえば、東京の中心地にある学校でも教師はもっと自然なというか、お国訛りの抜けない標準語を話す。
つまりこの先生は日本国の秩序そのもの、それの擬人化なのである。〔大室幹雄『宮沢賢治「風の又三郎」精読』岩波現代文庫、2006、170頁。改行、太字強調は引用者による〕

なるほど、この指摘はおもしろい。

 ちなみにこの本『宮沢賢治「風の又三郎」精読』はじっさいには半分以上の頁が作品外の社会史的経緯や作者の伝記要素なんだけど、「この本を信用したい」って気持ちが湧いてくるのは、宮澤賢治のことを〈宮沢〉と呼んで「賢治」とは呼ばない点ですね。

 「賢治」呼びはキモい。1996年の宮澤賢治生誕100周年の大騒ぎの予熱が冷めやらぬころには、まるで聖人であるかのように宮澤賢治を持ち上げる人たちがメディアにいっぱい出てきて、とてもしんどかった記憶があります。だいたいそんな人は宮澤賢治のこと下の名で「賢治」って呼ぶんですよね。

 なお、先述の「風の擬人化」としての又三郎は、「ひかりの素足」『宮沢賢治全集』第5巻所収、ちくま文庫)、「イーハトーボ農学校の春」(同第6巻所収)、「まなづるとダァリヤ」(同第7巻所収)にも、それぞれ〈風の又三郎〉〈風野又三郎〉〈北風又三郎〉と、名前だけ言及されています。

 こういった平板な擬人化としての4人の又三郎たち(そのなかには〈ガラスのマント〉を纏った又三郎もいます)と違って、「風の又三郎」における高田三郎は、童子神という性格を持っていると、大室幹雄は言うのです。

「水仙月の四日」『注文の多い料理店』所収〕の雪童子、「銀河鉄道の夜」のカムパネルラ、のみならずジョバンニまでが、「風の又三郎」の高田三郎とほぼ同室のアウラにくるまれて、読む人を蠱惑すること、これは拒絶しがたいであろう。〔前掲『宮沢賢治「風の又三郎」精読』210-211頁〕

本書収録作について

 「雪渡り」(1922)「ざしき童子〔ぼっこ〕のはなし」(1926)は『宮沢賢治全集』(ちくま文庫)では第8巻所収。

「よだかの星」「ツェねずみ」「気のいい火山弾」「ふたごの星」(原表記は「双子の星」)は『宮沢賢治全集』(ちくま文庫)では第5巻所収。

「祭の晩」「虔十公園林」は『宮沢賢治全集』(ちくま文庫)では第6巻所収。

「セロ弾きのゴーシュ」「風の又三郎」は『宮沢賢治全集』(ちくま文庫)では第7巻所収。

2000年11月17日刊。
挿画=大野隆司。解説=佐藤通雅。

宮澤賢治 1986年岩手県稗貫郡里川口村(花巻)生まれ。盛岡高等農林学校(のちの岩手大農学部)農学科第二部在学中より詩歌を嗜む。卒業後、同校研究生、東京の印刷会社勤務、花巻農学校教諭時代に『春と修羅』『注文の多い料理店』を刊行。退職後は農業に従事、のち東北砕石工場技師。1933年歿。作品は『宮沢賢治全集』全10巻(ちくま文庫)で読める。岩波少年文庫には他に『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』がある。

大野隆司 1951年東京生まれ。東洋大学仏教学科除籍。独習で版画を学ぶ。著書に『ウルちゃん 猫に聞かせる物語』(中公文庫)、『星のおじいさま』(主婦の友社)など。

佐藤通雅 1943年水沢(奥州)生まれ。東北大学教育学部卒業後、宮城県内の高等学校で教鞭を執る。『新美南吉童話論 自己放棄者の到達』(アリス館)で児童文学者協会新人賞、『日本児童文学の成立 序説』(大和書房)で児童文学学会賞奨励賞、『宮沢賢治 東北砕石工場技師論』(洋々社)で宮沢賢治賞、『強霜』(砂子屋書房)で詩歌文学館賞短歌部門賞。

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