岩波少年文庫を全部読む。(10)落語童話、あるいは童話版〈奇妙な味〉 宮澤賢治『注文の多い料理店 イーハトーヴ童話集』
落語的な童話
宮澤賢治の童話「注文の多い料理店」の語り口は、じつに落語的です。
どうですか、この落語感。「高宮川天狗酒盛」とか「愛宕山」「薬罐なめ」みたいな話の導入部につうじるものがあります。
夏目漱石や太宰治、町田康のいくつもの作品と並んで、近代日本文学における散文物語に口誦性を投下した作例が、この「注文の多い料理店」だと思うのです。
泥臭さと自己犠牲と
宮澤賢治の童話や詩については、どうも複雑な思いがあります。
小学校のころ、あまり本を読まない子どもだったのですが、3年生のときの担任の先生に勧められて、宮澤賢治の作品集(子ども向けに編集されたもの)だけは2冊読んでいました。
心惹かれつつ、苦手な感じもありました。詩は難解でした。童話はその後も気になって、中学時代に角川文庫(現行の版とは違うものですが)で読み直したりしていました。
苦手な感じというのは、ひとつは泥臭さです(その泥臭さはあくまで表面上のもので、じっさいには宮澤賢治作品の作風は「モダン」なのですが)。いまでは平気になりましたが、子どものころは農業の話とか岩手の言葉とか、そういうのにいちいち引っかかっていました。
もうひとつは、これは大人になって吉田司の『宮沢賢治殺人事件』(文春文庫)という評伝を読んでやっと言語化できたのですが、大乗仏教的な部分に抵抗がありました。
『宮沢賢治殺人事件』を読んだのは、1996年の宮澤賢治生誕100周年の大騒ぎの予熱が冷めやらぬころでした。まるで聖人であるかのように宮澤賢治を持ち上げる人たちがメディアにいっぱい出てきて、とてもしんどかった記憶があります。
『宮沢賢治殺人事件』を読むと、日蓮宗系の国柱会との関連も含め、宮沢賢治の「死や自己犠牲を美化する部分」がよくわかり、子どものころに感じた苦手さが言語化された思いがしました。死の美化は本書『注文の多い料理店』収録作では、たとえば「からすの北斗七星」(原表記は「烏の北斗七星」)がそれです。
とはいえ、小学校時代にもっとも印象に残った宮沢賢治作品は、じつは『アルマゲドン』風味の自己犠牲SF「グスコーブドリの伝記」だったりするのですが。
童話版〈奇妙な味〉
宮沢賢治作品への強い忌避感を含むアンビヴァレントな気持ちは、宮澤賢治生誕100周年の騒ぎのあと10年ほど続きましたが、いまは、宮沢賢治作品とはほどよい距離を取れるようになりました。素直に「いいな」と思うことが増えました。
とりわけ「注文の多い料理店」のような笑いとモダンさとの同居は、日本のミステリファンの言う「奇妙な味」の系譜にあると感じています。
江戸川乱歩は「英米短編ベスト集と「奇妙な味」」というエッセイで、本格探偵小説でも怪奇小説でも空想科学小説でもない、モダンでドライな小説(基本的には短篇小説)を、〈奇妙な味〉の小説と呼びました。
「注文の多い料理店」の〈注文〉という語の意味の反転、あっと驚く意外なサプライズではなく「予想される結末」へと徐々に段階的に導いていく手管(話芸の達人のように、作者は読者にチラチラ目配せしています)、ブラックですっとぼけたドライな笑い。当時の童話としてはきわめて斬新だったんじゃないかと思うのです。
本書収録作について
本書は宮沢賢治唯一の生前刊行童話集『注文の多い料理店』(1924)と、詩11篇を収めています。
『注文の多い料理店』(1924)は、「序」と9篇の童話からなっています。順に「どんぐりと山ねこ」「狼森〔おいのもり〕と笊森、盗森〔ぬすともり〕」「注文の多い料理店」「からすの北斗七星」「水仙月〔すいせんづき〕の四日」「山男の四月」「かしわばやしの夜」「月夜のでんしんばしら」「鹿〔しし〕踊りのはじまり」。『宮沢賢治全集』(ちくま文庫)では第8巻に収録されています。
「雲の信号」「岩手山」「高原」「報告」「永訣の朝」(1922)は『心象スケツチ 春と修羅』(1924)、「未来圏からの影」(1922)は『春と修羅』第2集より。いずれも『宮沢賢治全集』(ちくま文庫)では第1巻に収録されています。
「春」(1926)「和風は河谷〔かこく〕いっぱいに吹く」(1927)は『春と修羅』第3集、「夜」は『春と修羅詩稿補遺』より、「生徒諸君に寄せる」(1927?)は『詩ノート』附録。いずれも『宮沢賢治全集』(ちくま文庫)では第2巻に収録されています。
「雨ニモマケズ(十一月三日)」は『補遺詩篇I』より。『宮沢賢治全集』(ちくま文庫)では第3巻に収録されています。
2000年6月16日刊。
カヴァー画も宮澤賢治。挿画=菊池武雄。解説=髙橋世織。
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