禅問答の公題には正解はありません。
模範解答のようなものをよく見かけますが、
あれはこじつけで、さして意味はないで
しょう。
問答の主旨は正解のない問いにどう答えるかを師匠が聞き、弟子の悟りを見極めると同時に「頓悟」に導くことにあります。
しかし頓悟は入り口に過ぎません。何かの
きっかけで突然悟ることは出来てもそれを
保持し続けるのは難しいからです。
悟り続けるためには人生そのものが悟りの
境地である必要があります。
従って、仏教は生きることを疎かにはしません。作務の意味はなんでしょうか。勤行、
修法だけではなく生活自体が行なのです。
座禅の最中に何かを掴んでもそれが一時的なものであれば、座禅をやめた途端に雲散霧消します。
ましてや変性意識や肉体的感覚の変化は悟りとは関係ないものです。胡座も長時間続ければ脚が痺れるのは当たり前のことです。
念のため、私は悟りに達していないので、
先人の智恵を語っているに過ぎません。
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