見出し画像

広隆寺と秦氏


広隆寺は、603年(推古天皇11年)、
秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を
本尊として建立した京都最古の寺です。

秦氏は、渡来系の技術者集団ではないかと
考えられており、聖徳太子のブレーンとして大陸の先進技術を日本に根付かせるのに
一役買ったようです。

その一族の長が秦河勝です。

広隆寺は別名、太秦(うずまさ)と言い
ます。

では、普通ではなかなか読めない、「うず
まさ」とは何なのかについて考えてみま
しょう。

まず、一般的な「うずまさ」とは、広隆寺のある地域一帯の地名です。
転じてそこを所領する秦氏の長を指して言う場合もあります。(逆だという説もあります)秦氏(うずまさ)の治める土地だから、
そう呼ばれたのでしょうか。

秦氏は絹織物のスペシャリストです。絹は
税金「租庸調」の一つです。
絹織物を「うず高く積んだ」からうずまさ、なのでしょうか?

なぜ漢字を充てると「太秦」なのかについて考察してみます。
素直に“大いなる(太)秦氏”と取ることも
できます。しかし、ちょっと引っかかることもあります。

歴史を紐解くと「大秦」という言葉が出て
来るのです。

「大秦王安敦」の文字が古代中国の歴史書「後漢書」に見えます。
 大秦(大秦国)とは古代ローマ帝国のこと
です。

「安敦」とはマルクス=アウレリウス
=アントニヌスのことを指すとする見方が
一般的です。

大(太)秦とは、大ローマ帝国の中国での
呼び名ということになります。
因みにキリスト教は東進して伝播しましたが、仏教が逆にローマ帝国に伝わったという証拠はありません。

秦氏と大ローマ帝国。一見、なんの関係も
ないように見えます。

しかし、ユダヤ人のキリスト教徒(ネストリウス派)が時間をかけてシルクロードを
通り、朝鮮半島、ひいては日本に至った
という説もあります。

ローマ帝国はトラヤヌス帝の時に最大版図となり、ユダヤももちろん支配下に置かれて
います。

日ユ同祖論ではユダヤ人の一部がローマの
圧政を逃れ、朝鮮半島を経て、日本人の祖となったとされています。

まぁ、これは普通に考えて「とんでも学説」
なんですが、ますます混乱するのは、
稲荷信仰も秦氏がもたらしたという説が
あることです。

仏教、ネストリウス派キリスト教、稲荷
信仰、一体秦氏の氏神はなんなのか、或いは渡来人が持ち込んだ信仰を全て秦氏の事績
だとする考えの根底に何があるのか、
これは一筋縄ではいかない問題です。

残念ながら紙幅が尽きました。またの機会に考察しようと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?