さて、中国発祥の陰陽五行説が、
どう日本へと伝えられたかと言うと、
推古 10 (602) 年に百済より僧観勒が来て、
暦本、天文地理書および遁甲方術の書を
献上したとの記事が『日本書紀』に
見えます。その中に陰陽五行思想が
説かれていたものと思われます。
大宝律令では、陰陽寮所管のもと、
陰陽博士、暦博士、天文博士、漏刻博士
といった技術者達が置かれ、国家機関と
して整備されました。
大陸伝来の先進技術だったのです。
平安時代に入り、賀茂忠行、その子保憲
そして安倍晴明が現れた頃に全盛期を
迎えます。
保憲はその子、家栄に暦道を、
晴明に天文道を伝授しました。
以後朝廷では、賀茂、安倍(土御門)
両家が陰陽道を相伝して行きます。
では、陰陽師は何をする人かと言うと、
忌み日、忌み方(悪日、悪方位)を
避け、これら禍を除き福を招くため、
祓 (はらい) や祭りを行う人という
ことになります。
暦や星の動きを読み、呪法を用いて
福を呼び込む。雨乞いの祈祷なども
得意とするところです。
具体的には、出掛ける際の反閉 (へんばい) 、
※災い除けの足の踏み方です。おそらく
「禹歩」と同じだと思われます。
相手から身を隠す歩き方のため、
悪いものを避けるという意味ではないで
しょうか。
どうしても悪方位に出掛けなければ
ならない時に、一度吉方位に出立し、
途中で目的地に向かう方違(たが)え、
身体を強固に加持する身固 (みがため)、
身体をなでて、その穢 (けが) れや災いを
取る撫物、人の寿命を司る泰山府君祭
(道教が由来)などのテクニックが
あります。
陰陽道はその後、次第に民間への流布と
俗信化を強めていき、衰退して行きます。
陰陽師の一部は、いちこ、狐下ろし
などへと身を変えますが、明治以降
これらは禁止されます。
しかしその名残りは、今日、冠婚葬祭の
日選びに用いる大安、仏滅、等や、
風水、易断などに見られます。
本場中国では、陰陽五行思想は
今でも社会に深く根付いています。