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陰陽師(おんみょうじ)

陰陽師の代表的な人物と言えば、
安倍晴明が思い浮かびます。

「晴明」を「せいめい」と読むことが
通常ですが、(「はるあきら」とも)
諱(いみな)本来の読み方は実は
確定していません。

2000年前後に「陰陽師」がブームになり、様々なメディアで題材にされました。
私も野村萬斎主演の映画や、夢枕獏の小説、
それを原作とした岡野玲子の漫画などに
夢中になりました。

晴明没が西暦1000年前後ですから、
奇しくも没後1000年でブームが到来
したことになります。

京都市内の某ホテルが晴明の屋敷跡
だということで、何度か泊まろうと
しましたが、いつも予約がいっぱいで
取れなかった思い出があります。

安倍家が最初から陰陽道の本流だったか
と言うとそうではありません。

陰陽道は代々、賀茂家のものでした。
賀茂忠行、保憲親子に晴明が弟子入り
した後、陰陽道というと晴明、という
流れになったのです。
(因みに陰陽寮のトップ「頭」には
晴明自身はなっていません)

陰陽道について誤解があるといけないので、
少しだけ解説しますと、

これは、宗教や哲学といったものではなく、
当時の日本の政府の省庁のひとつである、
「陰陽寮」で学ぶ「技術」の一つでした。
他には「天文道」「暦道」などがあります。

つまり安倍晴明は、今で言う
官僚、公務員だった訳です。
※故、安倍晋三元総理が子孫である、
と地方遊説で言っていたそうです。
直系の子孫の方は実在するようですが、
所在は分からないと何年か前のニュースで
読みました。

晴明は51歳で天文博士の兼任が認められた
といいます。
随分遅咲きですね。

出世には興味のない人物であったのか、
単に大器晩成型だったのかわかりませんが、
官位も従四位下で終わっています。

ただ、当時の貴族からの信頼は厚かった
ようで、史実として数々の依頼を受け、
実力的には折り紙付きだったのだと
思います。

後年、晴明の子孫達が土御門家として、
鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を
統括したことを考えると、
陰陽師と言えば安倍晴明、というのは
決して間違った認識ではないという
ことになります。

「陰陽道」について、もう少し掘り下げて行こうと思います。

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