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【わかば】

四年ぶりくらいになるだろう。
久しぶりに生まれ育ったムラに帰省した。父が亡くなったためだ。
戻ってきたといっても戻ってきた理由が理由だ。何処に遊びに行けるわけでもなし、そもそもクルマがなければ買い物もままならないような僻地だ。
しかも行事がなくても実家は人の出入りも多く、呼び鈴も鳴らさず近隣の人間や親類が度々上がりこんできて落ち着かず、絶妙に居心地が悪い場所だ。
昔からそうなので今でこそ慣れてはいるが、子供時代など特に夏休みは家族水要らずで旅行に行くこともできず、喧しくひとり遊びに集中することもできず、只々憂鬱だった。

夏休みといえば思い出すことがある。
小学校の四年か五年かの頃だっただろうか、或る時、朝から母方の祖父が来た。
母は八人姉妹の下から三人目なので、我々兄弟が生まれた頃には既に祖父は喜寿近い歳。にもかかわらず、祖父は気難しい面があり人と暮らすのは向かないようで、祖父は娘たちの何れとも居を同じくしていない。
母もあまり快く思っていない様子であまり関わらないようにしているのが在々と判るほどだった。祖母が早くして亡くなったのも祖父が苦労かけたせいだと言っていたくらいで、正直嫌っていた。
それでも祖父は畑を耕したり果樹を育てて暮らしており、その日も孫である我々のために自分の育てた果物を届けに来たのだ。
当時としては珍しい白赤黒のカラント、グズベリなんて北欧のような可愛らしい洒落たベリー系の果物を。
それだけでなく、冬になれば郷里の弘前に出向き、そこから上等な苹果をたくさん送ってくれたり、胡桃ゆべしや大きな缶に入った津軽飴を買ってきてくれた。
おそらく生まれつき体の弱い自分のことを祖父なりに気にかけてくれているのだろうと思うと、気難しさや頑固さ、母との言い合いを目の当たりにすることがあってもわたしは嫌いにはなれなかった。
よって、祖父が来ると祖父にお茶や灰皿を出し、一緒にテレビを見て話に付き合うのは主にわたし。
いつもどおりソファに腰を下ろした祖父から受け取った果物を手に台所の母に「おじいちゃん来たよ」と告げに行くと、普段使わない九谷焼の茶器に淹れたお茶や灰皿を津軽塗の盆に載せて「これ、出してあげなさい」と持たされて茶の間に折返し送り出される。
うちに家の中で習慣的に喫煙する者は居ないので、それも母は嫌っているようで、祖父がいる間に台所から出てくることは稀だった。
祖父が喫っていたのは『わかば』とひらがなで書かれた、如何にもおじいちゃんという抹茶アイスのような色合いのパッケージの煙草だ。
「煙なんか吸っておいしいの?」と尋ねてみたことがあるが「なぁに、喫ったら慣れるもんだ」と津軽訛りのイントネーションで笑って言われ、子供にはよくわからず腑に落ちなかった記憶がある。
でも、その煙草の匂いも嫌いではなかった。 夏が来る前に手を入れた庭のような、叢のような、そういうやや青臭い良い香りがして、完全に年老いて枯れた男性特有の、納戸に放置されている古書のような匂いと合わさるとなんとも言えない雰囲気のある香りに感じた。
丁度その日は長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の日だった。テレビでは式典の様子を中継していた。
その夏休みには課題として「戦争を経験した人に当時のことを訊いてみましょう」というものがあり、それを思い出した。
既に数名に話を聞きに行ったが、このムラで戦争を経験した世代で存命なのは、圧倒的にこのムラから出たことがない女性ばかりだ。
なので大体は、
「直接の被害はないけど、男手がなくて大変だった」
「食べるものは作るなり採るなりしてたからなんとかやってた」
「でもあの頃食べすぎて芋や南瓜は未だ好きじゃない」
というような話が大半だった。
しかし、わたしは母から何度か「おじいちゃんは二回も戦争に取られたんだよ」ということを聞いたことがあった。
それを思い出して、わたしは深く考えずに訊いた。
「おじいちゃん、学校で先生が戦争を経験した人に話聞いておいでって言ってたんだけど、戦争のときおじいちゃんはどうしてたの?」
祖父は黙ってわたしを見つめていた。やがてその小さな目がうるみ、そこからポロポロと涙が溢れた。
そこでわたしは改めて、自分が人の気持ちを考えることができない鈍い子供であることを思い出して恥じ入った。
「おじいちゃん、ごめん、ごめんね」
わたしは祖父の膚が薄くなりシワの寄った手の甲を必死にさすった。
「戦争はだめだ、おれは忘れねえ。やったことはナンボ経ったって赦されねんだ、今でもおっかねえ」
指で涙を拭って、その手でわたしの頭を撫でて言ってから、祖父は煙草を取り出して火をつけた。
数口浅く吸って指先でトンと煙草を叩くと、灰皿の縁を彩る金色で縁取られた菊の花に灰が舞い散った。
それからも暫く、煙草を喫いながら声も出さずに祖父は泣いていた。
「戦争のときどうしてたのか」は聞けなかった。
でも、出征した祖父があの頃の戦争についてどう思っていたのか、どれだけ辛く悲しいものだったのか、僅かながら知った。

父の葬儀のため方々から集まった母の姉妹やその配偶者、従姉やその配偶者がリビングで座卓を囲んで晩酌しているときにその話をしてみた。
みんな大いに驚いている。
「娘のわたしたちだって、そんなこと一度も聞いたことなかったよ」
「あの爺が泣いて、そんなこと言ってたなんてねえ」
口々に言い合う中、一番末の妹にあたる伯母が顔を前に出してわたしに言った。
「でもね、それはきっとちぃちゃんだから言えたんだよ。自分が名前つけた思い入れのある孫だもの」
そうだ。祖父は父のことが大層気に入っていて、わたしの名付けは二人で話し合って決めたのだということも以前母から聞いていた。
「それもそうだけど、年取ってから初めて訊かれたから言えたんじゃないの?わたしらが訊いたってきっと只うるせーコンニャローって怒って暴れてたよ」
上から三番目の伯母が言って、わたしに「ねぇ」といたずらっぽく笑った。
彼女らが祖父のことを笑って話せるようになった今、この場に祖父も父も處らず、ウイスキーの香りも、あの青臭い匂いと古書のような匂いが入り混じった香りがしないのが侘しい。
時は、確実に流れている。

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