人の気持ちをわかりたい。

人の気持ちをわかりたい。

大体のことは人の気持ちがわかれば解決できそうな気がする。なにも叶わない気がするのは、人の気持ちがわからないからだ。

承認欲求だとか自己顕示欲だとか、関係性を前提とした欲求、それらを持つこと自体は悪いことではない。それらを顕在するタイミングを誤ること、空気を読めないこと、が悪いことなのだ。

気持ちがわからず、誤った形で欲を表現することは「ミス」なのだが、世の中的には「悪意」と捉えられる。「怖い人」、「悪い人」、本人が意図して悪人になったような、そういう見られ方をする。

「空気を読む」は後天的に鍛えることもできるが、先天的にセンスがある人も間違いなくいる。そういう人たちは「悪人」になることは少ない、少ない試行回数から学んで、軌道修正し、大火事を起こさないまま正しくなれる。

欲深い人と、いつも落ち着いている人、持っている欲の量は、実はそこまで変わらないんじゃないかと最近思う。その差は何かといえば、満たされているかどうか。満たされるためには、「わかっている」ことが必要。

この「わかっている」に到達するまでの時間がひとりひとり異なるせいで、人によって学生時代が輝かしくなったり、トラウマになったりする。

僕は圧倒的に空気が読めない方だ。そのせいでいつもタイミングを誤り、見切り発車し、人を傷つけ、自己実現の段階に至れなかった、至るどころではなかった。25年生きて、ようやく自分ってなんだろうと素直に考えられるようになった。ある程度ならば、言いたいことを言っても人を傷つけずに済むようになった。

成長度でいえばがんばった方だと思っているけど、「悪人」や「やばい人」のポジションに行くことはまだ全然ある。同世代と比べて、やはり失敗の数は異常だと感じる。客観的に。致命的なやつは少なくなってきたし、毎回ほんとぎりぎりで許されてる、あるいは関係性が終わる。学ぶ意思、2度と繰り返さない強い意思は人一倍ある、と思っている。それでも事故は起こる。起こさないことはたぶん無理だから、被害を最小限にし、学びを最大化する。

もう少し、もう少しだけ空気が読めたら、生まれついて、なんとなく調和を見出さないとか、協調するとか、傾聴とか、そういう社会的な行動を本能的にやれていたら。もう少し失敗が許される時期に、学ぶ余地もないような大事故でなく、適切な失敗を積み重ねられていたら。僕の努力不足か、生まれついた特性か、そんなことは考えてもわからない。

逃れられない、自分から。これだけ社会と繋がることを望んでも、知りたいと思っても、共感したいと思っても、圧倒的に空気が読めない、そんな自分から。これからも失敗する、学ぶしかない。自分を殺すことだけはしたくない。それだけ。素直さを諦めない、ほどよく相性とかのせいにする、1日の終わりには、あったかいお風呂に浸かる。

本質的な自分を表現すれば、誰かにとっての悪人になることは避けられない。だから学び、表現力を鍛える。満たせる自分を最大化し、"悪"になりうるノイズを最小化していく。それしかない。欲求に無茶な蓋をし続けるのが、いつかいちばん社会に迷惑をかける。そう思っている。なのであきらめない。

そういう話でした。もう25だ。今日が誕生日でした。失敗できる環境が確実に無くなっているのを感じる。これからは、必要のない失敗をしないという器用さも意識していかねばならない。器用に、それでいてめちゃくちゃに、それでいて理性的に、遊んで、学んで、ずっと怯えている運命みたいなものに抗っていくよ。はー、つかれるなあ。くそ。

もっとおもしろくなりたいです