絵が上手いと漫画が上手いの差
X(旧Twitter)にこんなポストが流れ的ました。AI絵に関して、森川先生が連日、対応されてるタイミングで、逆にAI絵と生絵について、本質的な指摘が───。
画像、評論のために必要なので、も転載します。
これについての、興味深い意見の紹介と、雑感を少し。
①上手さの視点の変化
まずは、こちらの意見をご紹介。
上手いの定義は人それぞれですが、単に絵画的な上手さで、漫画を評する人は多く。そこが、変わりつつあります。だいたい、上手いか下手かなんて、ピカソの絵を見てもわかりませんからね。書道の草書とか自由書とか、素人には何が良いのかわかりません。でも、それはその道のプロや同業者など、レベルの高い人間が見れば、判る部分もあります。
②無意識下での暗黙知
そして、森田崇先生の引用ポストが。
一般に絵が下手だと思われ、御自身もそのことを自虐ネタにされる福本伸行先生ですが。そういう、安易な評価はプロの作家はしないのですが。
どうも人間は、人間の顔ですら、チラッと見ただけで実際は無意識に数件箇所をチェックして、判断してるんだそうで。無意識下での高速情報処理、と呼んでも良いのかもしれません。それを暗黙知と呼ぶのかは、素人には解りませんが。
③絵と漫画は別の概念
「絵が上手い」と「漫画が上手い」とは、別の概念なんですよね。
絵が上手いは十分条件、漫画が上手いは必要条件。絵がうまくても漫画が面白くなるかといえば、そんなこともなく。
逆に、絵が下手と評されても、面白い漫画や漫画家は、いくらでもいますから。
この違い、劇画村塾の一期生でもあった菊池秀行先生が、朝日ソノラマの『獅子王』のエッセイでも、書かれていらっしゃいまして。学生時代に読んで、作品評価のベースにもなっています。
④絵画も巧拙は難しい
これは究極、漫画だけでなく絵画にも、同じことが言えそうです。実際に構図や暗喩の組み合わせで、物語性を感じさせる絵画が、一般には評価が高いですね。森田先生の指摘も、そこら辺の意図かと思われます。
フィンセント・ファン・ゴッホの『アルルの跳ね橋』も跳ね橋や馬車の可能性空間、そして河で選択をする女性たち、波紋とそこに一枚の絵画でありながら、動画のような時間の流れを感じたりします。
それとは別に、モランディのように独特の存在感がある画も人気は高いです。写実性だけの評価軸では、作品の評価を誤る危険性が高いです。アルフォンス・ミュシャを低く評価する大学教授とか。
⑤最後は人力が作用?
AIでプロンプトを公開されてる方の作品を見ると、ものすごく細かく重ねてあるんですよね。先ほども書いたように人間は、人の顔をチラッと見ただけで、脳の深層意識では数百数千のポイントを瞬時に解析してる訳で。
女の勘やベテラン刑事の直感も、実はかなりのフィルターを瞬時に通した結果の、判断なのでしょう。
たぶん絵画も、見る側は数百数千のポイントを総合的に判断していて。
それに耐える絵画や漫画にしようと思ったら、表層的な写実性とかよりももっと多数のレイヤーが重なって、作品全体を形作っているのだろうと、思っています。
こちらの本で解析したことは、その数千分の数十でしかないと、個人的には思っています。
それでは、そして、多くの後進に影響を与えた小林まこと先生の傑作、『柔道部物語』の名言で締めます。
以下は諸々、個人的なお知らせです。読み飛ばしていただいても構いません。
筆者の小説(電子書籍版)でございます。お買い上げいただければうれしゅうございます。
文章読本……っぽいものです。POD版もあります。
筆者がカバーデザイン(装幀)を担当した、叶精作先生の画集です。POD版もあります。
投げ銭も、お気に入りましたらどうぞ。
サポート、よろしくお願いいたします。読者からの直接支援は、創作の励みになります。