自分の心に耳を澄ませて
こんにちは、千夏です。
今回は吃音のイベントの感想を書きます。
そのイベントとは体験談マルシェです。
体験を「売る」(投げ銭)がメインのイベントですが、思わず自分語りもめちゃくちゃしちゃいました笑
結論から言うと大満足。
これだけ充実した話を聞けて話ができるとは全く思ってもみなかったです。
出店者以外にも「私にはこういう夢があるんです!」と話をする高校生くらいの方の姿もありました。筆談をする小学生を見かけることもありましたし、
私の親より年上の大人に話しかけられることもありました。名前も知らない聞き上手なおじさんに助けられました。温かい雰囲気でほのぼのとしたイベントでした。
これまでの私のモヤモヤを書いてみると…
優しい家族が大好きなのに、家族に理解してもらえない。
理解を求めるのは変なのかもしれないけど、理解してもらえない。だけど親は配慮を受けるために手伝ってくれたこともある。悩みは軽んじていたけど無理解でもなかった。それでも症状を悪気なくいじられるとイライラしていた。私にとっての当たり前を勝手におもちゃにするなってむくむくと怒りが湧いた。
家族には軽んじられる。
遠い関係の人には苦労人扱いされる。
でも、葛藤に悩んでるだけで困ってない。吃音自体は受け入れてるからセルフヘルプグループにもいけない。吃音について悩んでも話せる居場所がなかった。
こういうモヤモヤを全部主催者の奥村さんにぶつけちゃいました。初対面にして私はなんて失礼な人なんだ笑
日常生活では全然困ってないし、コンプレックスですらない私。普段から道案内するし、エレベーターで人に話しかけてたこともあるし、道に迷ってる人に自分から声をかけちゃうこともある。たまにあいさつができない、自分の名前が言えないっていうのはあるけど基本的に困ってない。受験の面接でもごく普通に症状出してたし、隠したいとも思ってなかった。今も昔も治したいとも特に思ってない。「吃音はつらい」という文言をみても共感すらしていなかった。つらいことは吃音だけじゃないから今でもこれは本心。
それなのにこんなに思うことがあったんだな。しんどかったのかもしれないって初めて認められた。
自分の味方は自分しかいないと言っている方がいたけど、本当にそのとおりだと思う。だから吃音のことも自分自身のことも大切にしたいと思って生きてきたのかも。
私は今まで吃音に理解のない人たちのことを罵っていた。無理解を感じる台詞を言われたら見下していた。バカにしてきたり、過剰にすごいね!と褒める人に対して「ヘラヘラ生きてんじゃないよ」みたいなことを言って何も努力をしなかった。
だけど本当は社会に文句を言いたかったわけじゃない。恨んでたわけじゃない。自分の話を美化せず淡々ときいてほしかったんだと思う。今までそういう人はほとんどいなかったから。
吃音に関する困りごとや葛藤は多分0にはならない。
だけど今は一旦いいやって思えている。今考えなくても良い。今悩まなくてもいい。もっと本気で辛くなったらもう一度向き合う、で良い。だって今の私は楽しいから。
感動ポルノだ!と思っていた注カフェへの考えも変わった。テレビの映し方とコメント欄の意見は置いといて、イベント自体は感動ポルノじゃなかった。人が一歩踏み出すってすごいことだ。私は当事者だけど他の人と違う!と一線を引くことで、変なプライドを保っていた。そのことに初めて気づいたのだ。奥村さんはそんな私の話もちゃんと聞いてくれた。困ってないなら良くない?とか、配慮も受けてて、恵まれてるんだから良くない?とか軽んじることは全くなかった。近くにいた参加者のおじさんも私のことを肯定して聞いてくれていた。
注カフェの常連客っぽい社会人女性がいらっしゃったので、常連さんですか?と聞いてみた。
するとテレビ取材をした方だと言う。
奥村さんを応援したい、支えたい。そんな思いが会話から伝わった。
私はテレビは大好きで、吃音に関する報道は大嫌いだった。良いところと苦しいところばかり切り取ってて2極化してる。普通に暮らしてるから、「吃音なのにしゃべれてすごいね」なんて報道はやめてよと思っていた。吃音ならダメだと思ったきっかけもテレビだったから。
でも話を聞いてもらえたことが葛藤を受け入れる一歩になった。ちゃんと向き合える場として、私にとってはピッタリのイベントだった。
5月に関東で注カフェをやるらしい。もしもイベントに行く余裕とスケジュールの都合がついたらそちらに足を運びたいと思う。