軽度吃音の人と難聴の人はどうやって話すのか?/「筆談すれば良いのに」に反論する【千夏メモ】
こんにちは、千夏です。今回は吃音のことを雑多に綴る千夏メモをお届けします。
前半は吃音の私が軽度難聴の人と出会った体験、後半はなぜ私が筆談をして生活していないのかというテーマで書いています。
吃音のある私と難聴の人たち
私は「吃音のある人」だ。別にすごく不便を感じているわけじゃないけど、症状は毎日ある。頻度や症状の重さとしてはおそらく軽度だと思う。私は「きこえとことばの教室」(通級指導教室、通称・通級)に通っていたので難聴の子と話す機会があった。出会ったときの新鮮さが忘れられないので記録として書いておこう。
通級のこと
私のいた通級は個別指導スタイルで、個別で指導を受けた後、他の子と交流時間があった。交流がメインの日もあるにはあったけどそちらは吃音の子同士のものがほとんどで、難聴の子と深い話はしたことがない。
厳密に言うと吃音以外でもことばの教室に通っている子はいたし、ことば関連でも難聴でもないけど個別指導に通っている子はいた。その子たちのことは今回関係ないから詳しいことはおいておく。通級に通っている理由は人それぞれなのだ。
話を戻そう。
難聴のKちゃんと吃音の私
当時の私は難聴の子がいるという意識がなかった。1年間一緒に交流していた難聴のKちゃんは補聴器をつけていた。今思えば少し滑舌も悪かった。教室の名前に「きこえ」と入っているし、そういう子がいることも知っていた。だけど私にとってKちゃんは難聴の子ではなく単にKちゃんだった。
Kちゃんに難聴があることを意識したのは通級の先生のひとことだった。
「ちなちゃん、Kちゃんの顔を見て話そうね、Kちゃんは聞こえにくいから」
そういう工夫が必要だと知って、私は顔を見て話していなかったことに気付いた。自分に吃音があることも改めて自覚した。私は人の目を見て話すのが苦手だ。顔が歪むから顔をじっと見られることが嫌だし、見ることも歪む顔を見せることになるから苦手なのだ。常に顔が歪むわけではないし、すらすら話せることもある。けれど、いつ歪むか、症状が出るかは分からないからできれば見せたくない。普段はこのことを意識していないのだが、つい目や顔をそらすクセがついていることに気付いた。
タイトルを「難聴の子との思い出」ではなく「どうやって話すか」としたのには理由がある。私が顔を向けることを意識すれば、音声会話ができる(難聴や吃音の人もいる)と知ってもらいたかったからだ。もちろん誰でもというわけではない。あくまでもKちゃんと私の場合に過ぎない。Kちゃんは人懐っこくてよく話しかけてくる子だったし、私も人一倍おしゃべりな方だからという性格も関係していると思う。当時の私は好奇心旺盛だったから多少音声会話ができなくてもめげなかったと思う。だけど難聴の子だから会話が難しいということは全くなかった。顔をまっすぐに向けること以外は特に変わりなく会話ができた。
吃音=筆談ではないし、難聴=手話でもない。私も彼女も音声会話をして生活している。
二人とも障害はあるが、多分彼女は障害者手帳を持っていなかったはずで、私も持っていない。社会的には障害者と認められていないが、医学的には障害があるという状態である。(もちろん、世の中には二次障害や他の障害で持っている人もいるし、Kちゃんの現在の状態は分からない。)
私が出会った難聴の人はKちゃんの他にもう一人いる。
大学でも一度難聴の講師に出会ったのだ。
その時のことも書いておく。
難聴の講師との思い出
彼女はおそらく補聴器をつけていなかった。つけていない理由は分からない。もしかするとものすごく小型で全然見えないタイプの補聴器をしていたのかもしれないからしてないとも言い切れない。していなかったのは合う補聴器がなかったのかもしれないし、そもそも補聴器と出会う機会がなかったのかもしれないし、軽度だから高額である補聴器を買うことが現実的ではなかったのかもしれない。
難聴だと知ったのは私が吃音があることを言ったことがきっかけだ。リアクションペーパーに配慮や要望があれば書いてほしい、と言われたので吃音があることや英語だと症状が出やすいことを書いた。するときれいな字で「私には軽度の難聴があるので必要に応じて筆談をするなど工夫を一緒に考えていきましょう」とあった。
彼女は英語の先生でコミュニケーションの多い授業をしていた。彼女は愛想がとにかく悪かった。つっけんどんな感じで威圧感があった。本人から難聴と言われてみると聴き返すことの多さに気付く。あまりに無愛想だったから聴き返されるときのリアクションが怖くて受講生から恐れられていた。聴き返されることよりその聴き返し方が私は苦手だった。聴き返す時に「はぁ?!」と言うのだ。私の大学では「聴き取れなかったからもっかい良い?」と聞き返す先生が多いので、他の先生との違いに驚いた。
ここまでを読むとこの先生はあまりいい感じはしないだろう。
だけど良いところもあった。配慮に関しては非常に丁寧だったし、メールの文章はとても分かりやすかった。
それに講義の進行の妨げになるほど聞き返してばかりというわけでもなかった。解説も丁寧だったし、講義の進め方を何度も慎重に考えて進行しているのが課題やお知らせから伝わってきた。だから愛想以外では良い先生と言えるのかもしれない。
ただあの聴き返し方は忘れられない。難聴のせいなのか、性格なのかはあいまいだ。だけどできればあの聞き返し方はやめてほしいし、すごく嫌だなと思う。怖い先生だったからやめてほしいとも言い出せないまま終わった。
筆談は結局一度もしなかった。だが、メールでのやりとりが中心だったので、それが実質筆談のような役割を果たしていたと思う。まだ当時はコロナ禍で対面の授業が少なかったことも影響している。
難聴の講師がマスクをした受講生の拙い英語を聞き取るのは大変だったかもしれない。吃音の私の英語ならなおさらだろう。
エピソードが長くなってしまったがそろそろまとめに入ろう。
どうやって話すかの答えとしては顔を向ける、メールを活用するなど工夫をして、音声会話をするというのが答えだ。
あくまでも軽度同士で、ある程度静かな状態で、両方が音声会話中心で過ごしていて、ある程度時間に余裕があって、特に音声会話に支障がなかった場合に限る。ちなみに通級教室のドアは重くて防音がしっかりとしている。他の場に比べると音声会話がしやすい環境が整っているのだ。
軽度同士でも色んな条件が必要ではあるけれど、音声会話が成り立つ人たちもいることを知ってもらえたら嬉しい。
「筆談をしないんですか」と疑問に思う人へ
私は筆談をほとんどしない。まれにするが、多くて年に一度くらいだ。
筆談が嫌なの?と思われるかもしれないが、そうではない。私は音声会話で生活している。そのため筆談自体に慣れていないのだ。
話したいこだわりが強いのか?とネットに書いている人がいた。世の中には吃音の人はそんなに筆談をして当然だと思う人もいるのだと知った。
筆談というのは結構会話のテンポが崩れる。特に吃音の私が難聴も吃音も何もない人と話す場合だとテンポが悪くなりがちだ。
私の場合聴力はあるので自分だけが筆談をする、相手は音声になる。
そうすると会話のリズムが悪くてやりづらい。多少待ってもらっても音声会話の方が早く話せる場合もある。
私の字は非常に汚いし遅いので筆談をするならスマホになると思う。でも私は打ってみせることに慣れていないから、やりづらいし会話にとても緊張する。
何より筆談は私が筆談をすることをよく理解した人が相手でないと成り立たない。社会のほとんどの人は音声会話メインで生きているからだ。だから筆談をする時に相手がすごく心配そうにしたり、怒ったり、怪訝な表情をしたりということがない前提が必要だ。
筆談は吃音を出して音声会話をするのに比べて心理的な負担が重すぎる。
だから私は筆談をすることが非常に苦手だ。本当に伝えたい時、伝える必要があると思う時はまれに使う。
吃音のある人は時間を使えば話せるのでなんで筆談なの?と言われてしまう恐れもある。「聞こえるのになんで筆談なんですか?」と飲食店で店員さんに言われてしまって筆談での注文をする勇気が挫かれたという経験談を見たことがある。
そういう恐怖心と闘ってまで筆談をしたいかと言われると微妙だ。もっと筆談をすることが特別じゃなくなれば気軽にできるかもしれない。
難聴の人の場合はお互いが文字になる可能性もあるので聞き返されないというメリットはある。それによって音声会話より楽な場合もあるかもしれない。それでも筆談には慣れてないからおそらく緊張はすると思う。
吃音のない人が風邪をひいたからといって簡単に筆談できないのににている。(私はいざという時のために筆談アプリを入れている。だからか吃音がない人に比べると「風邪をひいて声が出ないので筆談します」と書ける方ではある。)
症状が良くない時には指さしやメール、首振り(YESorNOを答えるのに便利)ジェスチャー等を駆使してコミュニケーションを取る。筆談は最終手段だ。もちろん、筆談が中心の当事者もいるとは思うし、補助的に上手に取り入れている方もいるはずだ。だから否定する気は無い。だけど、「吃音があるなら筆談すれば?」と軽く言われると「いやー不便な部分も多いんだよなぁ」と思う。だからデメリットや心理面のことも知ってほしい。
筆談の心理的負担は私のような当事者が時折筆談をする勇気を出せばいくらか改善される可能性はある。まだ勇気は出ないのだけれど本当は筆談したいのに…と思っている時に少しずつ「筆談でも良いですか?」と言えるようにいきたいと思う。ただし私にとって筆談は補助的なものだ。
私の場合は音声会話以外を使いすぎると、音声会話が怖くなってしまったという経験もある。症状や相手への不安が高まって症状自体が悪化してしまうことがあることに気付いた。症状には波があるのでいつでも使うと音声の可能性をつぶしてしまう恐れがある。筆談をしない環境で育ったからこそ、音声会話への不安が減ったという部分もある。筆談をするように言われていたら今の私はいないし、会話を避けて暮らしていたと思う。
ここは軽度だからこその難しさだな。数秒の時は待ってもらって言葉が数十秒かかるくらい出にくくて困っている時にさっと補助的に筆談が使えるっていうのが理想かな。
頑張って絞り出した言葉は聞き取りづらいことがあるので相手にとっても楽な場合もあるかもしれない。
なぜ筆談について考えるのか
私が筆談について考えるようになったきっかけは症状が悪化して雑談ができなくなったことだった。雑談ができなくなってから自信がなくなった。だけど当たり前のように吃音を待ってもらっていた。それが今までは嬉しかったのに急に苦しくなった。
待ってもらう時間が伸びることでそのことがもどかしくなったのだ。
雑談以外にも差し障りが出て筆談をしたいと初めて思うようになった。吃音のせいでできないことがふつうにできるようになる。筆談はそういう可能性を秘めているのだ。
筆談の普及は他の人にとっても良いことだと思う。聞き取りに困難を持つ人、視覚優位の人、先ほど書いた難聴の人、ろう者(日本語が第一言語ではない場合不便な面もあるかもしれない。)、場面緘黙症の人、吃音以外の理由で声が出ない人、のどを痛めやすい人、聞き取ってもらいにくい声質の人、声を出すのが恥ずかしい人、人見知りの人、体調不良で声を出したくない人。
色んな人が当たり前に筆談できたら良いと思う。
すでに筆談で生活をしている人もしたいけど私のように葛藤している人も皆が選択肢として筆談を選べたら良いなぁ。
☆おまけ
この記事を書くきっかけになったYouTubeのリンクを貼りますね。
生まれつき話したい言葉が出てこない...吃音症を持つ俊弥くんが見つけた生き方
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