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映画『カランコエの花』


『カランコエの花』を観た。
この作品を知ったきっかけは職場の先輩からのオススメ。
DVDと台本を渡されて、まずは本編、そのあとコメンタリー、そのあと台本、そのあともう一回本編観て、と指示を受け、「え。無理…」と思ったけど、このくらいの時間なら出来なくもないか、と思った。
まさか30分ちょっとの作品だとは思わなかったから。

まずはざっとあらすじ。
高校のとあるクラスが舞台。
授業が急遽自習になり、養護教諭がLGBTの授業を始めた。
その授業が自分のクラスだけしか行われていなかったことを知った生徒が、自分のクラスにそういう人がいるのではないか?と疑い始め、クラス中に波紋が広がっていく。
実際に同性愛者の女子生徒、桜がいて、それは主人公、月乃の友人。
そして、桜のセクシャリティがクラスメイトの知るところになる。
そんなお話。


制作側の意図通り、養護教諭はとっても浅はか。
クラスに波紋が生じて、まずいと思った養護教諭が担任従えてフォローに入るのも、浅はか。
今の教育現場を考えると、あーゆー考えの浅い人ってゴロゴロいそう。
私事だけど、小学6年の息子の担任は保護者会で「異性に興味を持つことは自然なことです。一方で、異性に嫌悪感を持つことも自然なことです。ですので、運動会の組体操でのウェーブは男女別にし、男女が手を繋がないよう配慮しました」と発言した。
全く何の配慮なんだか意味不明。
娘の通う中学の部活の男性顧問は、部活内でちょっとしたトラブルが起こった時「男子が女子の上履きを運んであげるなんておかしいと思います。そう思いませんか?」と詰め寄られた。電話口でだけど。問題の論点は全く別のところにあるのに。
決め付けと価値観の押し付けだと思った。

でも、副題にもなっている「ただあなたを守りたかった」って言うのは、あの養護教諭の独りよがりな想いでもあったりする。


で、生徒たち。
高校生にもなって、あの男の子たちみたいに言う子っているのかなー?というのが率直な感想。
ちょっと頭悪い感じ。
そうかもな、と思っても言わないのが今の子な気がする。
でもこの映画の本質はそこでは無くて。

友人がマイノリティだと知ったら、私だったらどうするか?

今回は、桜が自身のセクシャリティに対して既にそこまで悩んでいない。
それはエンドロールで声だけ流れる桜と養護教諭の会話からも感じ取れる。
相手にどう思われるか、は気にしていたかもしれないけれど。
これがもし、彼女自身が思い悩んでいたとしたら?
知られたくないと思っていたとしたら?
映画の中のような、友人たちの「気遣い」はもしかしたらありがたかったかもしれない。

同性愛者である彼女がその性自認に対して苦しんでるのかどうなのか、逆に本当の自分自身を理解して欲しいと望んでいたのかどうか、は、彼女と深く語り合わないとわからない。

気遣いが人を傷つけてしまうこともある、というのは、それがどちらの方向に向いても、当事者の想いに添ってなければ、どちらの気遣いでも傷つけてしまう場合があると思う。

今回の気遣いは、桜の想いに寄り添って無かった。
月乃が桜を想っていたこと、守りたいと想っていたことは間違い無くて。
桜が同性愛者であることを知った月乃は、桜との帰り道に、桜から事実を伝えられそうになる。
きっと月乃は、事実を告げられたらどう答えていいか、彼女を傷つける反応をしてしまうんじゃないか、瞬間的に頭を巡った想いがあったと思う。
ゆっくり考えたら受け止められるはずのことなのに、気持ちの整理をしたら当たり前のように桜を受け止められるはずなのに、それがあの瞬間はできなかった。
それはけして、月乃が責められるべきことではないと、私は思う。
黒板に書かれた文字を消した時もきっと同じ。
桜を守りたい気持ちが、桜の想いに寄り添って無かっただけ。

マイノリティであることは悩むことだ、苦しんでいるんだ、誰にも知られたくないことなんだ、というフィルターが、桜を想う月乃はじめ友人たちを苦しめてしまったんだろうなと思う。


想像力。
でも想像だけでは全然違うことも多くて。
一つの側面だけじゃ無くて、もう一方の可能性も考えてみる。
それそこ、37セカンズに出演されていた大東俊介さんが仰っていたけど「たくさんの客観性」が必要なんだろうな、と。
人と関わり合うことって本当に難しいな…。

ぜひ観てみてください。