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「きみの色」を観ました

今さらではあるが、「きみの色」を観てきた。九月の半ばの話だ。そして書いているのは十月の末だ。ちなみに公開日は八月末だ。何をしていた?

そもそも観にいくつもりなんてなかった。音楽が誰かを救うストーリーにはもう飽きていた。そういうアニメはいくらでも挙げられる。「ぼっち・ざ・ろっく!」、「ガールズバンドクライ」、「夜のクラゲは泳げない」。最近のものに絞ってもポンポン出てくる。そのせいだろう。ガレージオフにはギターが所狭しと並んでいる。ヲタクが買って投げ出したやつだ。音楽が誰を救うって?

「きみの色」は予告編の時点で音楽をする高校生の話だとわかっていた。それがわかっていてなぜ観にいこうという気になるだろう!塞ぎ込みがちな高校生が音楽を通して仲間と出会う。太陽は東からのぼり、高校生は音楽で人生を変える。決まりきったストーリーはいつもつまらない。

ではなぜ観にいったか。山田尚子の作品であるからではない。山田尚子が「映画けいおん!」や「映画 聲の形」の監督だったとかそういう情報はどうでもいい。観にいく理由がそれならもっと早くに観にいっただろう。理由は単純で、「まあ観にいってもいいか」と思えるほど時間が経ったからだ。ほとぼりが冷めたのだ。あとは、まあ、話題になっていたから。

時間ギリギリにチケットを買って会場に入る。女子高生からおじさまに至るまで幅広い層が席に座っていた。教室に遅れて入るような居心地の悪さを感じながらも席についた。その頃にはもういつもの映画泥棒THE MOVIEが始まっていた。今日ばかりはカメラ男が逃げ切るかと思ったけれど、もちろんそんなことはなかった。出来レースはいつもつまらない。

スクリーン一面に白色光が投影された。始まりの合図だ。主人公がギターを弾くシーンから始まればいいと思った。そうすれば諦めがつく。いつも通りの青春音楽アニメだから気張る必要はもうなくなる。どうせ流れはもう知っている。ここからの二時間はリラックスしてただ楽しめばいい。

でも、そんなことはなかった。「色」の解説が始まったのだ。色は波である。波の速さによって色が変わり、物が違う色に見えるのは反射する波の種類が違うから。こんなのは中学理科の内容だ。全くもって音楽と関係はない。しいて言えば音も波であるということだが、そんなことのために色の話をするなんてナンセンス極まりない。

もちろんそうではなかった。色の話は「共感覚」へとなめらかに移行した。そもそも共感覚とは、本来まったく関係のない感覚同士が結びつくという、ある種の特殊能力である。文字と色、音と色、あげくのはては文字と味覚が結びつく場合もあるという。そんななかで、主人公である日暮トツ子は人と色が結びつくという共感覚を持っていた。人の上に色がかかって見えるのだ。

彼女の共感覚は幼少期の絵によく現れている。他の子供が描いた絵は、見たままの人の形に見たままの現実の色を落とし込んだものだった。しかし彼女は一色だけで人物を描く、あたかも抽象画のような絵を描いた。彼女も他の子供と同様に見たままの世界を描いただけである。

人はその絵を見て「才能がある」と言うだろう。では、その「才能」とはなんだろうか?そもそも良い絵、良い芸術とはなんなのだろうか。

良い芸術とは作者の主張が強くこもっている作品である。主張というと少し硬い印象を与えるかもしれない。この主張は何か社会に対する批判かもしれないし、内に秘める抑えられない情動かもしれない。もしくは目の前にある美しさを他者にも伝えたいという単純なものかもしれない。なんにせよ、作者が想いを込めている限りそれは良い作品となる。

だから、芸術作品と向き合うときは、作品そのものだけでなく、作者の想い自体と向き合う必要がある。作品に正面から向かい合い、じっと見つめる。ゆっくりと作品の内側へと入り込んでいき、作者と無言の対話を始める。芸術鑑賞とはこうあるべきである。

彼女の想いはたった一つだった。自分が見ている世界をそのまま伝えたい。それだけである。共感覚を通して見ている世界を、ただ純粋に描いていただけである。

だから、「幼いのに抽象画みたいですごい」や「色彩感覚に優れていてすごい」とか「何食べればそんな絵が描けるの!?」などと褒め称えることは違う。そもそも、人間は食べたものだけでできているわけではない。現実で使われるネットミームはいつもクソつまらない。もちろん、共感覚が一般的でない以上、このような感想が出るのは仕方のないことだ。普通の人はこの感覚を理解しない。共感覚は特殊なのだ。

そのことに彼女も気付いただろう。他の絵と並んだ自分の絵を見れば、自らの見ている世界は他の人とは違うということは嫌でも理解してしまう。周りと違うという孤独に彼女は向き合わなければならない。

だから、彼女は共感覚の話を基本的には打ち明けない。共感覚のことを伝えれば変な人だと思われてしまうだろう。小中学生にとって「変」であることはそれだけで孤立の原因になってしまう。

かつて、自分も共感覚を持っていた。文字に色が見えるだけの単純なものだった。音は音のまんまだったし、人も人のままだった。しかも、色が見えるといっても、トツ子のようにではなかった。人に重なるように色を見ていた彼女とは違い、ただ単純に文字を見ると色のイメージが頭の中に浮かぶだけだった。色を見たときの感覚が文字を見たときにもあらわれると言った具合だ。とても弱い共感覚だ。

弱いがゆえにだろうか。中学を卒業する頃にはもう失われていた。「失われていた」と書くのは、気付いたときには消えていたからだ。消えた瞬間がわかっているのなら「失った」と書くだろうし、卒業する頃なんてあいまいな書き方をしない。とにかく、共感覚はもう自分のものではない。失ったものを追い求め続けるのはいつもつまらない。

でも、共感覚の痕跡はまだ残っている。文字を見たときに、色が記憶として呼び起こされることがあるのだ。それは共感覚とは違う。あのときに見た色を文字をきっかけとして思い出しただけだ。記憶は取り出すたびにかすれていく。いつか本当に色が見えなくなるときが来るだろう。

一方で、トツ子の共感覚は高校生になった今でも健在である。そして、トツ子は共感覚という秘密を二人に打ち明けた。「作永きみ」と「影平ルイ」である。日暮トツ子はこの二人に色をみたのだ。

作永きみはトツ子と同じ高校に通っている「青」い高校生だ。成績優秀な黒髪美人であり、聖歌隊のリーダーも務めている。トツ子とはクラスこそ同じであるが、接点自体はあまりなかった。しかし、トツ子はきみが持つ青色に魅了されていた。きみが投げたボールが顔面に直撃したときは、その衝撃ではなく、色の美しさで朦朧としていたほどだ。

作永きみは、突如として退学し、古本屋で働いている。

影平ルイは離島に住む「緑」の高校生だ。親の病院を継ぐために医学部を受験することになっている。兄が継がないのなら自分が継がなければいけない。そう思っている。ルイは音楽をやりたがっているのだが、そのことを親に告げられていない。そして、できるのならばバンドを組みたいと思っている。

影平ルイは、作永きみの古本屋によく足を運ぶ。

日暮トツ子は共感覚を持つ高校生だ。共感覚をもっているにもかかわらず、自分の色はまだわからないという。本屋で働いているという情報しかないが、退学した作永きみをずっと探している。ある日、しろねこに導かれるようにして入った本屋で、作永きみを見つけた。そして、偶然にも、影平ルイにも出会った。

「よかったら…私たちのバンドに入りませんか?」

彼らは突然出会い、突然にバンドを始めた。彼らの色なんか、まだ誰にもわからない。

彼らは二月の文化祭で演奏するために曲制作を始めた。一人一曲、作詞と作曲を全て自分たちで行うことに決めた。

作曲の間、トツ子はときおり「この音は誰々の色だ」ということを口にする。彼女はきみとルイの色である青と緑の音を曲に組み込もうとしているのだ。音に色などないのに。それを表すかのように画面上には青と緑の絵の具が水中で混ざり合うような描写が差し込まれる。しかし、そこにトツ子の色はない。

文化祭当日、思い思いの衣装に身を包んだ彼ら、しろねこ堂のメンバー、たちは白色光にあふれるステージに立った。うるさいほどの沈黙が会場を包んだ。

どこかテクノを感じさせるサウンドが流れ出す。ルイの曲、「反省文~善きもの美しきもの真実なるもの~」だ。

あいまいなの 境界のない
あわいにも 揺らいでみる

反省文~善きもの美しきもの真実なるもの~

三人の色が溶け合い、一つの音楽が生み出されている。

そのまま、夜明け前の海のような、静かな青を思わせる音色が響く。きみの優しい声が空間に広がる。きみの曲「あるく」だ。

灯りを 燈すの
誰かの夢

ここにある時間とふれる鼓動は
途絶えず芽生える しずかな開放

光より愛に沿う
花となり 咲きたい

灯りは 揺らいで
やわらかく

舞い上がる水のささやきを知り
たたずむあなたへ愛のうた放つ

歩けそう?聴こえそう?
音の波と この声

あるく

歌詞は非常に短くゆったりしている。その分、きみの持つ色が空間全体に広がるようだ。「水のささやき」と書いたのはきみの色が青だからなのだろうか。

優しい曲が終わり、突如として電子音が響き出す。キャッチーなメロディに乗って「水金地火木土天アーメン」という言葉が流れ出す。三曲目、トツ子の曲だ。

きみの色がぶち抜きました
わたしの脳天 土天アーメン

とつぜんとつぜん現れました
ほんとにルイ腺 虹色のカーテン

水金地火木土天アーメン

この部分はトツ子にしか書けないだろう。そして、きみとルイの二人に出会わなかったらこんな歌詞にはなっていない。最終曲にふさわしい、三人の色がすべて混ざり合った、最高の曲だった。

演奏は間違いなく成功だった。観客を音楽にとりこみ、普段は静粛なシスターまでもを踊り出させたのだ。これ以上何を望むだろうか!

演奏のあと、トツ子は一人、中庭にいた。二月にもかかわらず光はもう春そのものだった。一面に広がる花を照らす陽光は、彼女を祝福するかのようだ。突然、遠くからピアノの音色が流れてきた。誰のピアノかはわからない。でも、そんなことはどうでもいい。トツ子は踊り出していた。日差しを全身に浴び、手足を伸ばす、跳ぶ、回る、止まる。そして、また動き出す。そのとき、高々と掲げた手のひらに光が差した。

彼女の色は、赤、だった。
きみの色は、青、だった。
ルイの色は、緑、だった。
彼らの色は、白、だった。

上映が終わって外に出ると、すでに夜になっていた。夜の色は宇宙の色だ。黒ではあるが、黒以上に深い黒である。もし世界に夜がなかったのなら、私たちは宇宙のことなど想像もしなかっただろう。夜は想像力の時間だ。そんなことを考えながら帰りの電車を待っていると、ある友人のことを思い出した。

その友人は共感覚をもっている。トツ子と同じように人に色が見える共感覚だ。そういえば自分の色を尋ねたことはなかったなと思い、聞いてみることにした。送信ボタンを押し、電車の揺れに体をあずける。車内の光は白ではなく、少し黄色い。月が黄色く見えるように夜は光を黄色くするのだろうか。

しばらくすると返事がきた。
「水の色」
そう書いてあった。光を反射する水面は、常に色が変わり続ける。友人にとっての自分はそんなにも捉えきれなさがあったのだと思うと苦笑するほかない。

共感覚はいつもおもしろい。

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