「花束みたいな恋をした」を観ました
まず、批判されるべきはシナリオを書いた人物である。そのため、麦や絹は批判される必要がない。誰かが、この作品をつくろうなどと言い出さなければ、麦と絹は世界のどこかで自己満足のサブカル恋愛をしているだけだった。それの何が問題だろうか。
しかし、映画として、彼らの生活が、いわば盗み見されたことによって、本来外部に晒される想定をしていない二人だけの会話、これも自己満足である、が衆目に晒されることとなった。問題点はこれだ。悪いのは二人の恋愛を映画にした人間だ。
まず、サブカルチャーの話をしよう。サブカルチャーとは日本語訳をすれば下位文化である。上位文化であるメインカルチャーよりも、人気がなく、ひっそりと存在している。そうであるだけなら何も問題ではない。
しかし、サブカルというものは時に「サブカルクソ女」のように悪口として用いられる。それはなぜか。サブカルを好きでいることを一つのアイデンティティとし、他者とは違うという優越感を手にし、その鼻持ちならない態度が外に出ているからである。
この映画ではそれを2時間見せ続けられる。2時間だ。それも休みなくである。正気とは思えない。もし映画館で見ていたのなら拷問もいいところだ。日本国憲法第三十六条に違反している。
なに?監督は公務員ではない?では仕方がない。おとなしく拷問されていろ。
また、「サブカル好きな人間」と「好きなものが外部からサブカルと呼ばれている人間」は大きく違う。前者はサブカルであればなんだって構わない。内容なんてどうでもいい。自分にうまく組み込むことができるものならなんでもいい。そう思っている。そういう奴は大抵、内容に関しては何も知らない。
それに対して後者は、好きだったものがたまたまサブカルと呼ばれていたというだけである。だから、それがサブカルかどうかなど気にもしない。好きだから好きなのだ。彼らは内容をきちんと話すことができる。
麦と絹は前者である。間違いなくそうだ。だから内容などどうでもいいと思っている。観たことがある、読んだことがある、という事実だけが重要であり、彼らはそれを観ていない、読んでいない人間をでかいツラして批判する。「どうせ〇〇知らないんでしょ?」こう言って冷笑する。知っているだけなのに何が偉いのだ。
内容など、どうでもいいという彼らの態度がよく現れているのが「映画」というコンテンツである。
彼らは二人とも映画の半券を小説のしおりに使っている。そのことで意気投合するのだが、その半券がなんの映画なのかということは全く話題に上がらない。内容など微塵も覚えていないからだろう!映画は、小説という別の物語のための道具に成り下がった。なんの映画であるかはどうでもよく、ただ、読みかけの小説の記憶補助装置として使われてさえいればいいのだ。その小説も最後まで読まれないだろうが。
記憶補助装置としてだけでなく回想のための道具としても彼らは映画を用いている。彼らはつまらない映画を流しっぱなしにしながら初めてのセックスをした。ある夏の日でも、憂鬱な月曜日でもなく、「つまらない映画」を見ながらしたのである。ここでも映画は思い出の記憶補助装置として使われている。彼らにとって映画の内容などはどうでもいいのだ。「つまらない映画」が、初めてのセックスのページにしおりとして挟まれていればそれだけでいいのだ。
そんな感じに彼らは想い出を呼び起こすために全く別の出来事を使う。閉店したパン屋、推し作家の復帰作。ありとあらゆるものを自分たちの物語を語るために道具として使う。彼らには彼らだけで存在する自立した物語がない。他の出来事に寄りかからないと物語を語れない。
それは普通のことかもしれない。だが、彼らはすでに映画という文化を道具として使った。映画の内容と向き合いもせず、だ。それならば彼らの心情に向き合いもせずに好き勝手に批判することも許されるだろう。
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