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吃音の事言わなきゃよかった。でも。

「やっぱり相談したって意味なかった」

「私はこんなに勇気出して頑張ったのに」

「受け入れてくれると思った私がバカだった」

「こんななら話さなきゃよかった、、時間を巻き戻したい」

あの日勇気を出して、
もしかしたら心が楽になるかもしれないって入った
大学内のカウンセリングルーム。

でもそこを出た30分後の私の頭の中は、
こんな真っ黒な言葉たちでいっぱいだった。

あの日、あの大学の中で、一番性格が悪くなっていたな(笑)

いや、性格が悪いというより、
すごく口の悪い独り言が心の中に充満しまくりだった。

私は大学に入学するまで、ずっと吃音を隠して生きてきました。
小さい頃から吃音の子も通う「言葉の教室」というのに行っていたから、
小学校の先生は私の吃音の事を知っていたかもしれないけど、
自分からは相談したことなかったし、
友達にも恥ずかしくて笑われそうって理由で言ったことはない。

愛想笑いと、あんまり喋らない子というキャラで
なんとか乗り切ってた。

人に吃音の事を相談するなんて、その時の私には、

屋上から飛び降りるくらい覚悟が必要なことでした。


だから誰にも相談しないで、配慮も求めたことなんてなかったし、
そんなもの私にはいらないって思ってた。
配慮を求めないことが唯一、私は皆と同じでやっていけるんだって思える救いだったのかもしれない。

自分が変な子として見られても、
友達と昨日の面白かったドラマの話題に入れなくても、
無理に笑って誤魔化しても、
たくさん忘れたふりしなくちゃいけなくても、
見えない工夫をしなくちゃいけなくても、

そうやって自分一人で苦しんでいる方が楽だと思った。
周りに知られるより全然いい、って。

クラスメイトにはない吃音を持っているのだから、
普通に過ごすには人より頑張らないといけないのは、
当たり前だと思っていた。
苦しむのもしょうがないと思ってた。

でも、大学生になったら、
吃音の苦しみが、自分1人の中で解決できる問題じゃなくなっていった。

対話型・発表型の英語の授業が私の学部ではとても多くて、
私が喋り始めるのが遅いから、私とペアになった子は、いつも読み終わるのが遅くなっちゃって、他の全員が読み終わった静かな教室に私たち2人の声が響くことになるし、今思い出しても、公開処刑みたいでお腹が痛くなっちゃう。
スムーズな会話にならないから、相手の子の勉強の邪魔をしてるって申し訳なかった。

頭の中ではこんなに分かっているのに、簡単な英語さえ言えない自分が悲しくて悔しくて、恥ずかしくて、クラスで泣いてしまったこともあった。
もう大学生なんだけどね(笑)

当時はもう人生終わりくらいに思ってた。
(暗い言葉ごめんなさい)

留学生と交流したくて交流会に行っても、
日本の事について質問してくれたのに、答えられなくて申し訳なかった。

自分だけが苦しい思いをするならまだいい。
でも私の吃音のせいで、他の人を巻き込んでしまっているというのが、
なんとか耐えられていた高校までとは、違うところでした。

他人が関係すると吃音ってこんなに辛いんだ。

って自分が我慢すればどうにかなる問題じゃなくなってた。


もう一つ、私が苦しかったのは、
言い換えができない英語と触れる時間が長くなったことで、

吃音を隠すことができなくなった

こと。


今までは、咄嗟の言い換えとか、喋らないという選択肢ができていたけど、もうそんな工夫なんの役にも立たなくて。

みんなの前では「普通の子」としていられらことが、唯一のお守りだったのに、そのお守りがいつの間にかなくなっていて、

今まで見ないように、気にしないように押し殺して我慢していた
吃音の辛さが、ここで一気にあふれ出してしまった。

毎日、自分の嫌な部分を、自分の中だけで感じるんじゃなくて、
人の反応とか、相手への申し訳なさとか、そういう広い範囲から
知らなきゃいけなくなった(←なんか言語化が上手くいかないなあ)。

唯一、私が吃音となんとか付き合ってこれたのは、
「他人に迷惑を掛けていない事」「吃音を隠せていたこと」
があったからなのに、どっちもできてない。

大学入学してちょっと経ったこの頃、
初めて心の底から、超超吃音を憎んだよ、私。


他の方はいつが一番、吃音が辛かったんだろ。
もしかしたら、今かもしれないし。
小学生の音読の時間かもしれないし。
中学高校の思春期かもしれない。

生きているだけで大変なのに、
今の生活をこうやって進もうと毎日を生きているんだから、
偉い、みんな偉いって、
最近すごく思う。

で、
どうやったらこの苦しみを解決できるか考えたけど、
高校までの私の吃音の工夫じゃ対処しきれなかった。

抱えきれなかった。


これはもうしょうがない。


大学で夢の為に一人暮らしをして頑張りたいという思いが強かったから
余計、苦しかったんだと思う。

初めて、「辛いから相談したい」「助けてほしい」が、
「吃音の事を言いたくない、知られたくない」に勝った。

私は心理学部に通っていたからか、
大学内に、臨床心理士さんが話を聞いてくれるカウンセリングルームっていうのがあってね。

大学って、心理学部がなくても相談に乗ってくれる場所あるのかな?
今の大学って、生活や心のサポート体制が整ってそうなイメージです!

もう頭の中がごちゃごちゃで、
自分が何に悩んでいるのかも分からなくなっていたけど、
とりあえず一人じゃないと思えるかもと思って、行こうと決めた。

「吃音があって、英語の授業で簡単な英語も言えないんです」
「本当はわかるのに、上手くいかないことが多くて」


初めて、他人の前で「吃音」という単語を発した瞬間だった。

緊張した。

吃音のことを言いたくて来たのに、部屋に入って吃音の事を言えたのは、
時間の最後の最後だったと思う。

言い終わった瞬間は、

吃音の子になってしまった恐怖と
伝えた達成感と
何かの扉が泣いた感覚と
少しは楽になれるかもしれないという期待を

感じていた。

目の前の先生は、

「全然、大丈夫だよ!」
「今のちなさん全然喋れてる様に見えるし、言いたいこともちゃんと伝わってるよ」
「私もどう言おうかなーって思ってるとつっかえちゃうことあるし」

って答えてくれた。

そのあとすぐ涙がこぼれた。
人前で泣くつもりなんてなかった。

カウンセラーの先生は、
その後すぐ、「うん。うん。喋れてるから大丈夫。」って
またつけたしたから、
私の涙が安心した涙だと思ったかもしれないけど、

私にとっては、悲しい涙だった。


でもわかる。
普通に喋れてる様に見えるもんね。
普通に喋れてるよって励ましたくなる気持ちもわかる。
安心しようとしてくれたんですよね。

でもただ、

辛いんだねって受け止めてほしいだけだった。


「今は言えない言葉は言い換えとかしているので、スムーズに喋れているように見えるかもしれないんですけど、英語とか決まった単語を言わないといけないとなると、言えなくて。」

って辛さを理解してほしくて伝えたけど、

「そっかーどうしたらいいんだろうね」
「でも案外ほかの人って気にしてないんだよね」
って。

違う。違う。そういうことじゃない。

ここで心が閉じた。

私の最大の恥ずかしさである、「吃音であることを言う」というのを差し出したけど、私の欲しい、「ただ受け止めてもらう」をもらえなくて、
悲しかった。


「吃音を理解してもらうのはそんな簡単じゃない」
「吃音って全然、理解されないんだな」


外に出る前に止めたはずなのに、建物を出た瞬間、また泣いていて、
自分でも、何が何だか、どうしたのか分からなかった。
目の前に窓の反射を鏡にして踊るダンスサークルの子たちが見えて、
泣き顔を見られまいと、咄嗟に柱の裏に隠れた。

柱を隔てて、こっちの世界とあっちの世界は、全然纏っている色が違った。
今でもはっきり思い出せるくらい、
全然違った。

「吃音の事を相談する」という私の初めては見事に砕け散った。
散々な結果だった。


あのあと図書館で課題をやって帰るつもりだったけど、
涙が、「止まる」ということを知らなくて、
目に映る同じ大学生たちが、
何にも悩んでいない平穏な世界にいるように見えてしまって、
同じ空間にいることに耐えられなかった。

だから、とりあえず
一人暮らしをするアパートに帰った。
とにかく早歩きで。

「吃音のことはやっぱり分かってもらえない」

「相談しなきゃよかった」

「言わなきゃよかった」

「ずっと隠しておけばよかった」

「もっとつらくなっちゃった」

地面に足がつく度、その振動と一緒に頭の中でこんな言葉たちが生まれて、それを受け取る心に、矢のように突き刺さった。

帰り道の最後の方は、

「これからどうしよう」

だった。

今のままだと絶望的な大学生の私、なのですが、
ここから少しずつ、
「辛いこともあるけど自分なりに頑張っていいくか」と
なんとか大学生活を送ります。

なんか当時を振り返った書くとどうしても暗い感じになっちゃうな。。

で、それから私はしばらく学校を休むんですけど、その後、
大学で、学生の学習をサポートしてくださる、ある女性の方と出会って、
その後の大学生活をなんとか続けることができました。

その間も何回も泣くんですけど、
泣き虫ですねー本当に。
涙の貯水タンクが人より大きいんだと思います。

もし、涙もろい方がいらっしゃったら、あなたは、
「人より味わう力がある」ってことだと私は思っています。
だから安心してください。

吃音の辛さは何にも変わらないのに、
毎日、「今日なんとか進んでみよう」と勇気をくれたその方は、
今私がこういう人になりたいと憧れている人の一人です。

「私を吃音の子」として見ないで、
「ちな」として普通に接して下さり、
でも、吃音の事はいつもただ受け止めてくれた方です。

もし勇気を出して相談したけど、ちゃんと受け止めてもらえなかったことがあったとしたら、どうかその人がすべてだと思わないでほしい。

1人に相談してあれだけ落ち込んだあなたが何言っとるんじゃー
って感じですね。
はい、私が一番思っているので大丈夫です笑(?)

言われたくない事を言われた瞬間は、苦しくて心を閉ざしちゃうかもしれないけど、
もし落ち着いてきて、まだ心のどこかに、吃音の事を話したいという思いがちょっとでも残っていたら、自分の安心できる人にお話しして欲しいです。

専門的な知識を持っている人じゃなくても、自分が心を許している人にね。

残酷だけど、皆が皆分かってくれるわけではなくて。
そういう人もいるかって、諦めも大事なのかもしれません。

でも私は、一人でも吃音を受け入れてくれる人がいたあの大学生活は、
とても安心できて、目に見えない大きな支えになってくれた。
一人の存在ってこんなに大きいんだって教えてもらいました。

その女性の方がどういう風に接して下さったかは、また書こうと思います。

一歩進みたいと思った時に、勇気を出して相談した先のみなさまの心が、
温かいものでありますように。

明日からお休みの方、ゆっくり心を休めますように。

ちな


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