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ことばの教室に行った意味

昨日Noteを書きながら、頭の片隅で、

保育園の頃から通っていた「ことばの教室」についてのイメージというか、自分にとっての存在意義というか、そんなようなものに変化が起こっていることに気づきました。

私、小学生の時、ことばの教室って好きじゃなかったんです。
「皆が行かない場所に行くのは恥ずかしいだけだし、行っても吃音が良くなるわけじゃないし、意味ない」
って。
担当の先生には申し訳なくて言えたもんじゃないですけどね。

だからたまに、
「今ことばの教室に行っています」って笑顔で言う小学生とか
「教室があってよかった」って言っている方をテレビとかSNSで見ると、

え、本当に? 嫌だったのは私だけなの?

皆いいと思えているんだ、、

って、

その方たちにとって、吃音と向き合えたり相談できたりできる場所がある事を嬉しく思うとともに、

どこかもどかしいような気持ちもありました。

私が小学生の時に一人で抱いていた気持ちは誰の心にもないんだって。


でも、大学を卒業してから
ようやく吃音と真正面から向き合えるようになってきた最近の私は、

「ことばの教室、当時は嫌だったけど、それでもやっぱり行っていてよかった。気づいてなかっただけで、たくさん意味があったのかもしれない。そうじゃなかったら、学生時代、もっと辛かったかもしれない」

って思えているんです。

昨日この気持ちに気づいてなんか不思議な感覚でした。

少しずつ自分の記憶の中にあるあの教室に通っていた日々が、
実は知らないうちに
自分を助けてくれていた事に気づいたんだと思います。

向き合えているんだと思います。


人間の思考とか記憶って不思議ですよね。

嫌だって思ってたのに、
友達の影響とか、流行とか、なにかの拍子に急に好きになっちゃったり、

過去の嫌な経験だって、後で振り返ってみると、
「あれがあったから今に繋がってる」
「あれがなかったら今の自分はいない」とかって、

今の自分に力をくれる心強い温かい物語に変わっていることだってある。

その当時は辛いだけだったものでも、
意識しないだけで、案外
今の自分が進む道を照らしてくれていたり、
自分が大切にしたいと思う考え方とか信念の礎は
いい思い出よりも、苦しかったり悲しい経験から学んで作られていることの方が多いような気がするんです。

私の勝手な考えですけど。



吃音に向き合いつつあるそんな20代の私が、
ことばの教室に通ってよかったと思っている事の一つは、

自分が吃音であるということを早くから理解できたこと

です。

恥ずかしながら、
「私には吃音がある」ということが当たり前すぎて、
つい最近まで、「吃音は理解するものだ」って気づきませんでした。


Xで、「社会人になって自分が吃音だということを初めて知りました」って言葉を見たり、
コメントでも、「つい最近まで吃音だと知らなくて、小さい頃怒られてばかりでした」って言葉をいただいたことがあって。

そのとき私、そんな世界があるんだってびっくりしたんです。

だって、

小さい頃に言葉に詰まる傾向にある子はみんなことばの教室や何かしらの支援を受けられていて、今大人で吃音症の方は、自分が吃音だということを小学生の頃から理解していると思っていたんです。

自分の中にこんな「当たり前」があった事が怖くなりました。

私がいつ自分と吃音を結びつけたか分からないくらい自然に、
「自分は吃音症なんだ」って小学生の頃から理解できていたのは、
保育園の頃から、ことばの教室に通えていたからなんだと分かりました。

急に病院の先生から病気を知らされるみたいに、
そういう場が改まって用意されていて、

「ちなちゃん、ちなちゃんは言葉が上手く出てこない吃音っていうのをもっているんだよ」なんて急に言われたら、余計皆との違いを知らされるし、
え?ってなかなか自分と結びつけられていないと思います。

きっと先生が少しずつ気づかないところで、お話ししながら遊びながら、言葉が上手く出ないことについて、吃音についてイメージできるようにしてくれていたんじゃないかと思います。

本当にそうか、どうやって先生が理解できるようにしてくれていたかの真相は聞かないと分からないけれど、私の記憶上では、改まって説明された記憶はないのに、小学生の時には吃音という言葉を知っていたので、きっとそうなんじゃないかな?っていうのが今の私の予想です。

それに、
もしことばの教室に通わずに、自分の言葉に詰まるこの正体がわからないままだったら、小学校の音読の時間も、お友達とのお喋りの時間も、中学、高校もずっと、言葉が言えない度に、上手く喋れない「自分自身」がおかしいんだって、自分を責め続ける日々だったと思います。

私はどちらかというと、
自分の中には吃音というものがあると理解できていたことで、
自分の中にある「吃音」を責めて、
「どうして私は吃音を持っているんだー!!」って毎回、
吃音に怒りの矛先が向いていたような気がします。

「自分のせい」<「吃音のせい」と思えて、自分自身を100%否定することから回避できていたのは、やっぱり早くから教室に通えていたからだと思います。

自分のせいと思うのと、吃音のせいと思うのとでは、自分を責めるにしても全然意味合いが違うような気がします。

早くから吃音と向き合って、自分を知る機会をくれていたことばの教室は、当時の私は気づかなかったけど、小学校卒業後ずっと吃音と付き合っていかなきゃいけない私を支えてくれていたんだと、気づけて嬉しかったです。


今の私は、ことばの教室に感謝しています。

私の吃音に最初に気づいて、
ことばの教室に繋いでくださった保育園の先生にも感謝しています。

なんかこんなこと思うのはおかしいかもしれないけど、
ことばの教室に通ったことに意味があってよかったです。

ちな






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