カミングアウトのない世界。
「カミングアウト」って、
最近いろんなところで聞いたり目にしたりするけれど、
その度に、
どういうわけか、もやもやを感じるんです。
「カミングアウト」という言葉がもつ中身って、
私にとっては、どちらかというと暗くて悪いものという印象があります。
ハッピーなことには使わないですよね。
「お腹の中にいる赤ちゃんの性別をカミングアウトするね!」
って言わないもんね。
だから、障害をカミングアウトするっていう言葉に触れると、
「障害=悪いもの、触れづらいもの」
というのを印象づけているようで。
「カミングアウトしようと思います」っていうと、
今からすごくすごく重大な事をついに言います。
どうか真剣に聞いてくれませんか?
みたいなイメージが私の中にはあります。
そう言う表現の裏には、
人には言いにくいけど、
受け入れてもらえるか分からないことだけど、
大きすぎる不安な気持ちを抱えて、
その為に時間を確保して、
ある程度の心の準備をして、
勇気を出して言う、
怖いけど、
重々しいことを頑張ってきますっていう宣言が隠れている気がして。
どうして、その人のただの一部なのに、
それを伝えるために、
「言います」
じゃなくて
「カミングアウトします」
ってわざわざ言わなきゃいけないんだろうって、思うんです。
自分の一部を伝えるだけなのに、
どうして
一大イベント!
みたいな感じになっちゃうんだろう。
でも、
やっぱり内側の本当の自分を見せるって怖いし、
今まで隠して言っていなかった
自分の人とは違うなって所とか、恥ずかしいと思っていることを、
「言う」
なんて軽い言葉じゃ抱えきれないし、
言いづらくて伝えるのが不安な社会だから、
「カミングアウト」
という少し重い言葉に自分の不安な感情を託すのかなとも思います。
私も含めて。
そんな重苦しい単語を使わなくてもいいくらい、
どんなみんなの特性も、性格も、今のどんな状況も、
伝えたいと思う人が現れて、言いたいと思う瞬間が来た時には、
そりゃやっぱり怖いし緊張するけれど、
「ちょっと言ってみようかな」
って、
そのくらいの心の準備で伝えられて、
「そうなんだ。そっか。私に教えてくれてありがとう。困った事とかこうして欲しいとかあったら言ってね。私もなんかあったら話聞いてもらうし逆に助けてもらうから。」
なんて、
軽いソフトタッチな、でも中心は温かい会話のキャッチボールの中に、
吃音とか、他の障害とか、日々の悩みとかが存在している社会っていいな
なんて思ったりします。
この考えがいいかはわかりません。
間違っているかもしれません。
ただ、
こんな世界ならいいんじゃないかという私の理想です。
でも、現実世界の辛い所は、
そんな重々しい「カミングアウト」を勇気を出してしても、
その先には必ず、自分が思い描く「温かい世界」があるという訳ではないと
いうこと。
辛い言葉を投げかけてくる人もいます。
一見優しさに包まれた棘を差し出されることもあります。
でもまた同時に、
そんな辛い世界ばかりでもないということ。
だれか一人でも、一緒にいると温かいなと思える人がいれば、
たくさんの人に棘を刺されても、
不思議なことに救われることもあるということ。
わたしはそれを、
最近実感できるようになりました。
なんだかいろいろ考えていたら、
頭の中がごちゃごちゃしてきてしまったので、
文章が不完全燃焼ですが今日はここで。
そんな重々しい「カミングアウト」を勇気を出してしても、
その先には必ず、
自分が思い描く「温かい世界」があるという訳ではない。
と思った経験、実際に言われて悲しかった事、それについて今考える事は、
また明日書いてみたいと思います^^
ちな