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初めて接客に挑戦したいと思った思い出のドーナツ屋さん

小さなドーナツ屋さんでの小さな諦め

大学生で一人暮らしをしていたあの場所から
自転車でちょっといった所にあったあのドーナツ屋さん。

病院とか、一番お得なスーパーとか、図書館とか知っておかなきゃって、
入学前によく近所を散歩したり、自転車でミニミニ一人旅をしてた。

そんな時、ふと左側に見えたあのドーナツ屋さん。

小さい建物の端から端まで
いろんな色のドーナツたちがショーケースを通してこっちを見ていて、
その瞬間、心がふわっとしたのを覚えてる。

(うわ、かわいい、、、!)

(いいとこ見つけちゃった、、!)

散策を中断して、買って食べたいと思ったけれど、
見る限り、自分でドーナツをトレーに取る方式じゃなくて、
店員さんに自分でほしいドーナツの名前を言う感じだったから、
諦めちゃった。

今振り返ると、勇気を出して買ってほしかったなと思うけど、
大学生の時は今より何かあるとすぐ、
「吃音があるから喋らない」という盾を構える女の子だったから、
しょうがないとも思う。
あの時はあの時で、発言とグループ活動が多い大学の授業のことで正直頭がパンクしそうで、精いっぱいだったから。

吃音が理由で、買いたいドーナツを買うのを諦めたって、
なんだか文字にしてみると悲しい感じがするけれど、
私はそんなに悲しいって感じじゃなかったんだよね。

小さい頃から、同級生にも、先生に対しても、言いたいことも、食べたいものに関しても、我慢することが当たり前だったから、
「悔しいけど自分にはこれくらい当たり前だよね。しょうがない。」
って感じだった。

ドーナツ屋さんを通り過ぎる私の心の中を全部文字にするとねw
こんな感じ。


「あーぁ買えなかったなあ、、
食べたいなー。あーーー!食べたーーーーい。
もし普通に言えてたらぁ、
まず抹茶は絶対頼むでしょー、それからクランチのやつでしょー、
あとせっかくだからレモンも!
一人暮らしなんだからもう一個くらい買っちゃってもいいよねー」


ってな感じで結構一人空想の世界で楽しんでた記憶があります。

吃音とアルバイト

大学生活が始まって一か月位したとき、
周りの子がアルバイトの話をしていて、
毎日の学校生活でいっぱいいっぱいでアルバイトなんて
正直考えられなくて、
でも私もなにかしないといけないんだと思った。

表面上は喋らない女の子だったけど、本当は喋るの大好きで。

だから接客業というか人と関わる仕事いいなって思って。
そんなこと考えてたら、ポッって頭の中にあのドーナツ屋さんのことが頭に浮かんで。
小さなお店だし、落ち着いてる雰囲気だったし、お客さんもそんな一気にたくさん来る感じじゃなさそうだし、いいなって。

だけど、吃音をもつ自分が仕事をしてお金をいただくということが想像できなかった。
こんな自分にお金を払ってもらう価値はないって。
お金をもらうからには、言わないといけないことはちゃんと言わないといけない責任があることだって思ったら、怖くなった。
お店の人にも申し訳なくなった。

吃音のことを言ったところで、理解してもらえるか分からない不安と、
それまでは順調でも、吃音の事を言った瞬間、
自分を見る目が変わってしまいそうでそれも怖かった。
相談できる人もいなかったから、
1人でドーナツ屋を頭に浮かばせて、1人ですぐ消し去った。

大学生で接客業のアルバイトってなんか憧れがあって、
自分の中にある漠然としたきらきらした憧れ集団の中に、
自分が入れない悔しさとかもどかしさがあった。
吃音を恨んだ。同時に怖がってる自分もなんか嫌いだった。

結局、大学生活で接客のアルバイトは諦めたし、
一回もあのドーナツ屋さんでドーナツは買えなかった。

思い出のドーナツにもう一回出会いたい

今文字を打っていたら、懐かしくなってそのお店調べたら、
複雑な気持ちいろいろ思い出しちゃったけど、やっぱりおいしそうだ!!

今度旅行に行ったら絶対買うぞ!
今の自分ならちょっとくらい時間がかかっても挑戦できる気がするから。
いや、買うんだ!
そしたらあの頃の自分に、「買えたよ!」って報告しよう。
喜んでくれるかな?すごって言ってくれるかな?

ありのままの自分と向き合うって怖いよね

そんなこんなで接客のアルバイトをしたかったけど、諦めた大学生時代だったから、接客に挑戦してみたいという自分の気持ちを大切にして、自分と向き合って、注文に時間のかかるカフェに挑戦している学生の方たちを見ると、本当にすごいなと思うんです。

私が注カフェに出会ったのは大学卒業後だったけど、在学中に知ったとしても、怖くて参加できていないと思う。いや、絶対できてないね。
今だって、もう学生じゃないからできないけど、もしもスタッフとして参加することになったら怖いし、まだ参加できないかもしれない。

参加した人は偉いということが言いたいんじゃなくて、ありのままの自分と向き合っているのはやっぱりかっこいいなと私は思います。

ちょっとずつの変化

私には、自分の吃音の事をお話しできる人が何人かいます。
片手に収まるくらい。
人が怖い時代があった私にとっては多くなった方で、とてもありがたいと思っています。だけど、正直まだ言葉に詰まっているのを見られるのが怖くて、すぐ言い換えしてしまう自分がいます。
でも、会う中でちょっとずつ安心感が大きくなって、いつかありのままの自分でお話しできたらいいなというのが私の目標です。

ちょっと前までは吃音の事が社会に広まっていくのが怖かったんです。
毎日、必死に吃音の事を隠しているのに広まることで自分の吃音もばれやすくなっちゃうって。
でも、吃音のことを知ってくれる人が増えることで、窮屈な自分じゃなくて、力を抜いた自分でいられる時間がちょっずつ増えるんじゃないかなとも最近思うんです。


ちな



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