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吃音と優しい諦め
昨日の夜から、イライラしてる。
自分に。
ほんっっとに、しょうもない。
このイライラをどう表現していいか分からないけど、
爆発的にイライラする感じじゃなくて、
心の奥底にずっとあったモヤモヤがイライラに変わったような、
そんな感じの気持ち。
この気持ちの言語化がとても難しい。
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ガソリン満タンの車。
どこかに進みたくて、ここから飛び出したい。
だけど、目的地も進む方向も分からない。
進む勇気もない。
進みたくてアクセルを踏むけど
ニュートラルになってて
ずっとふかしっぱなし。
何も進んでいないのに、ガソリンだけがなくなっていく。
ここ2年くらい、私はそんな感じだったと気付いた。
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最近の私、とてもうじうじして悩んでる。
最近というか、ここ2年くらいずっと。
ずっと吃音に囚われてるというか、吃音の辛さに囚われてる。
自分を責め続けてばっかりで、
自分の事なんて分かっているつもりだったけど、
何にも分かっていなかったのかもしれない。
分かってるようなふりして分かってなかった。
もちろん吃音は辛いし、
そのせいで皆と同じになれなくて、
努力するけど普通にはなれなくて、
なくなく諦めないといけないことも多くて、
自分の気持ちなんて押し殺すことが当然で、
吃音にはたくさん泣かされたし、
吃音なんかなかったら、、、って妄想が止まらないし、
なんで喋るのが大好きな私のとこにきたのって、
正直、正直うざい。うざかった。
目に見えるものなら、つぶしてやりたかった。
でも最近、猛烈に頭の中で繰り返し思うことがあります。
もう吃音が辛い辛いって悩み続けて足踏みしてるばかりの人生嫌だって。
私の人生、こんなもう変わらないものを悔やんで暗いばっかの人生なの?
私は人より喋るのが上手じゃないかもしれないけど、
だからってそこだけでもう価値はないのかな?
誰にだって、その人だからこその強み、良い所があって、
私にもきっとあるんだよ。
本当は心の底で、自分はダメ人間じゃないって思ってるんじゃないの?
吃音があるからこそ、できることも分かったこともあるんでしょ?
本当は私にも何かできるって思ってて、諦めたくないんだよね。
って、昨日たくさん自分への思いがあふれてきました。
また泣きながら(笑)
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吃音にばかり目を奪われて、
自分の良い所を見ることができていなかったなって。
でも、しょうがないとも思います。
だって、それくらい気を張って、吃音を隠して生きていかなきゃ、当時の私はもっと皆に笑われて、馬鹿にされて、学校が苦しかったと思うから。
「みんな同じが正義!!」が強い学校生活ではそうでもしなきゃ、
助けてもらうという選択肢を知らなかった私にとっては、
ありのままの自分を出す、というのは最も危ない橋で、
吃音を隠して楽しそうに笑って見せること、大丈夫に見せることが、
唯一の盾だったから。
高校を不登校になったことも、
アルバイトから逃げたことも、
就活をしなかったことも、
今こうやって家にいることも、
私へ。何にも自分を責めることはないよ。これもそれも全部、自分を演じてばかりで休む必要があったからで、自分を許してあげるために時間がたっぷり必要だったからで、全部意味がある事だから、大丈夫。
無理に受け入れなくてもいいから、
もう自分を責めなくない。
許してあげたい。
だって私に吃音があるのは、私が何か悪いことしたわけじゃないし、
親が悪いわけでもない。
小学生から相談できる人がいない中、周りに同じ人がいない中、正解を誰も示してくれない中で、必死に一人で試行錯誤しながら頑張ってきたじゃん。
もう十分すぎるほど頑張ってきたのに、まだ自分を責め続けて、吃音が辛いって言いながら人生続けていくの?
もうこれ以上、自分を苦しめるのはやめたい。やめてあげたい。
もっと自分に優しくなりたい。優しくしてあげたい。
自分がしたいことを楽しくやっている自分に会ってみたい。
ありのままの自分で生きている自分に会ってみたい。
私は、
努力しても電話は壊滅的にできないし、
お店の注文さえメニュー表が目の前にないと一人でできないし、
マニュアルをそのまま言えばいいという簡単なこともできないし、
私の喋りは、みんなの思う当たり前の喋りじゃないかもしれないけど、
もうそれが私だし、もうしょうがない。
そこで困ったら助けてもらえばいい。恥ずかしくない。
甘えなんかじゃきっとない。ありのままの自分でいる為の優しい諦めだ。
自分を無理に変えようと、普通になろうとしなくていい、優しい諦め。
その代わり、自分が出来ることはもっと上手になってその分、人を助けていけばいい。
もうできない事を必死に頑張るんじゃなくて、
自分だからこそできることの為に生きたいなって。
誰かがだれかに苦手なところを助けもらって、
助けてもらったら、誰かの苦手を自分の出来ることで助けていけばいい。
そうやってみんなが適度に寄りかかりながら支えあって生きていければいいのにって思います。
そうしたらみんなが、自分らしいことで輝けるのにね。
出来ない事無理に頑張って、倒れることもないかもしれないのにね。
最後まで自分に優しくできるのは自分しかいないのに、吃音の自分ばっか責めて、苦しいって思ってばっかで、自分で自分を責める人生は悲しい。
自分がかわいそう。
綺麗ごとかもしれないけど、吃音でたくさん悩んだからこそ、
目に見えるものが全てじゃないって相手の気持ちを想像できるようになったし、苦手な事がある人にも優しくなれてると思うし、当たり前のことに感謝したり、小さなことで喜べるし、いろんな人とも繋がれたし、広い世界が見えてると思う。
もう自分にないものを悔やむより、
自分にあるものを伸ばしたい。
あんなに吃音で苦しんでばかりの自分が
そんなことを考えられるようになる未来がくるってなんか変な感じ。
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本気で頑張れるものがほしい。自分だからこそできることがあるはず。
私だけじゃなくて、みんな。
みんなみんな生まれた時からすごいものをもってるんだから。
だけど、この何か頑張りたい気持ちはあるけど、
目的地も今これからどっちに曲がればいいのかが分からなくて、
頭の中でずっと考えてるから、何も進んでなく思えて疲れるんだなって。
私はこれだっていう夢中になれるものを見つけていきたい。
でも、ずっと一つ強く思っていること。
もう私がこれだけ過去に吃音で辛い経験をしたのに、
今小中学生が同じ思い、経験を繰り返してると思うと、
なんか過去の自分の苦しんだ経験がもったいないというか。
苦しむのは、もう自分だけでいいというか。
私の親も、今聞くとたくさん悩んで苦しんだみたいです。
だから、たくさん苦しんでいる親御さんがいることも100%ではないけど、気持ちがわかります。
だから、過去の自分の苦しみ、親の苦しみを無駄にしない為にも、
過去の自分を救ってあげるためにも、
吃音の経験はできるだけ文字にしたい、残したいなって思います。
なんかまたちょっとだけ、自分の事が分かった気がします。
吃音の事を良いとも、悪いとも、いい意味で少しずつ何とも思わなくなっています。
「落ち込みやすいんだよねー私」くらいの程度で「吃音の自分」も考えられたら、本当の意味で吃音も含めた自分まるごと受け止められている状態なのかなって思います。
吃音をもった人たちが、自分を責める時間が少しでも少なくなるように、
吃音を過度に意識しなくてもいい、自分の良い所をちゃんと感じられるような優しい社会になってほしい。
吃音の子たちは何にも悪くない、苦しいのは環境が合っていないだけなんだよね。
吃音の囚われから早く脱皮したいな(笑)
そして過去の自分と同じ思いをする子がいるのは本当に嫌。悔しい。
ずっとエンジンふかしっぱなしの私だけど、
書いていたらちょっとだけ進みたい方角くらいは分かったような気がします。
みんながありのままの自分で輝ける日常。
そんな世界すてきだね。
ちな