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強がり者の欲求

私が自分の吃音の事を打ち明けたり、お話ししたりすることに抵抗があるのは、全然大丈夫だよ!気にならないよ!喋れてるって!と言われるのが怖いから。突き放されるのが怖いから。傷つくのが怖くて強がってる。

大体そんな反応が返ってくるんだろうなって、話してもないのに未来を決めてしまう。想像しただけで、心をギュッとつかまれるような痛みを感じる。そしてその痛みの周りをもやもやした感情が覆ってる。

日ごろから大丈夫になんとか見せてるその裏の努力がない事にされて、「大丈夫」というたった3文字に、一瞬で踏みにじられたように感じてしまう。

それは表面上の私で、本当は大丈夫じゃないんだよな、、


言い換えして吃音を分からないようにしているのは自分だけど、言い換えしてる代償として辛さが分かってもらえないことがあるならと、言い換えしている自分をちょっと責めてしまったりもする。

相手の方は、「普段聞いている喋り方」に対して「大丈夫」って言ってくれているけど、私はきっと、「私が吃音症を持っていること」に対して「受け止めてもらってる感」が欲しいんだと思う。普段見えていないこのもやもやを掬ってほしい。話す中でその感情たちに光を当ててほしい。

だけど、明るい励ましの言葉を言われてしまうと、私が抱えていて掬ってほしかった不安や苦しさはどこに置けばいいか分からなくなる。喉まで用意していたそれらを静かに腹の底までおろす。

でも同時に、そうやって、「分かってくれなかった」という心の状態は、「この人は、自分がしてほしいような態度や言葉がけをしてくれるかも」という期待を押し付けているんじゃないか、それで勝手に苦しくなっているだけなんじゃないかって考えたりもする。

期待通りにならなくて嫌なんだとしたら、なんとも自己中で独りよがりだなとも思ったりする。

相手が私に伝えてくれたその言葉たちは、優しさで包まれていて、そこに私を嫌な気持ちにさせる意図なんてこれっぽっちもない事も分かってる。だからこそ、その優しさを耳から頭で処理する過程で、裏側の意味で捉えて傷つくことも、そんな自分も嫌だし、吃音の事話してみようと思った人の事を、そんな一瞬で「やっぱり分かってくれなかった人」とカテゴライズしてしまうのも悲しいなと思う。そうやってどんどん殻に閉じこもってしまう。

でも、

伝えた先に悲しさはあるのかもしれないけど、同時に温かな優しさも伝えた先にしかないのも事実で。

私が本当に分かってほしいと思うのなら、こちら側も分かってもらう努力をしなくちゃいけないんだと思う。話していたら、絶対に分かってくれる人はいたし、そういう人が一人でもいると、日常を生きている中で辛いことがあっても、分かってくれる人がいるんだという事実は、思っている以上に心のお守りになってくれる。だからやっぱり「話すこと」「伝えること」って大事だと思う。

自分の中にある「知っておいてほしさ」は、他人に任せていたら他人に翻弄されて苦しくなる事が多いから、「知っておいてほしさ」のハンドルをある程度は自分で握っておくことが大切なのかなって思う。

人に、理解してよ!って一方的に押し付けるのは違うけど、それにしても私は自分の事を周りに話さなすぎるから、もう少し、人に頼らないといけない。人に頼るというのも強さだと思って頑張るぞ。



ちな



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