「喋れる」と「喋れない」の隙間

ちょっと怖い。誰かに「吃音症です」って言うことが。

変な目で見られるからじゃない。

「吃音症じゃないでしょ」っていつも言われるから。

「全然わかんないって」「全然大丈夫だよ~」って言われちゃうから。

素直に相手の優しさを受け取れない自分も、今の自分の言葉をそのまま受け取ってくれない相手も、ちょっと嫌になってしまう。自分が普通に見られるように見えないところで頑張っている努力がなかったことにされて、苦しさを軽く見られてるように感じてしまう。

わかってる。

相手は本当に、私の喋り方=吃音には結びついていないんだろうし、優しさからそういう言葉をかけてくれていることも。でもだから余計、言われた時のこの悲しさというかもやもやをどこにぶつければいいのか分かんなくていつも自然と涙目になっちゃう。

本当に泣き虫。

本当に泣いたらヤバいやつだから、必死に笑って横を向いて堪えているんだけどね。

でもよく考えればおかしいのかもしれない。

言い換えなんやらを駆使して吃音を隠しているのは私なのに、それを「分かってほしい」なんてね。隠しているなら、全然わかんないよって言われて嬉しいはずなのにね。なんて思ったりもする。

「吃音の姿を見られたくないのに知ってほしい。」

私の心の中はいつも矛盾ばっかり。他にもある。

一人でいたいのに誰かに話を聞いてほしいし、幸せになりたいけど頑張りたくないし、放っておいてほしいけど側にいてほしい、とか。わがまま人間(笑)。

でもこうやって自分の気持ちに正直なところが私の良い所な気もするから、そんなことを考える自分が嫌いではないけれど、この感情を抱えて生きていくのは厄介だし大変なことばっかり。

よくテレビで取り上げられるのは、理解してもらいやすさだったり、分かりやすさの為なのか、比較的すぐに吃音の症状が分かりやすい方が多いような気がしてる。吃音の認知が広まるのは良いことだけど、「テレビで映る症状=吃音」って多くの人が理解すると、周りの人からすれば私は多分、吃音症ではなくなるんだろうし、辛さも軽く見られるんだろうなとか、配慮を求めると、このくらい…できるでしょ。甘えてるの?って思われても仕方ないんだろうなって思う。

実際、何年か前まで、もっと症状が重くて辛い人いるんだから私は吃音で辛いだなんて言っちゃいけないんだ。言う資格もないし、軽いんだから努力しないとって思ってた。

でも、人の感じる辛さに思いも軽いもなくて、辛いもんはやっぱり辛くて、
症状を説明しても軽く捉えられて分かってもらえないしんどさに、こんな「普通」と「吃音症」の間の軽い吃音なら、いっそのこと、もっと症状が重ければよかった。なんていつも考えてた。

寂しかったんだと思う。

心配して欲しかったんだと思う。

分かってるからね、の一言が欲しかったんだと思う。

症状が重ければよかったなんて思うのおかしい!なんて誰かから指摘されるかもしれないけど、でも本当に羨ましいと思ってた。いっそのこと目に見える障害だったらよかったのに、とかも。本当に心が空っぽだったんだと思う。いつも吃音の事ばっか考えてたし。

一般の人の「喋れる」と、世間の思う吃音症の「喋れない」の間。

その隙間で必死にもがいている感覚。どっちかに行きたいのに、どっちにもなれない私。どっちにも行けなくて、誰にも見てもらえない。心配されない。

雑談くらいなら喋れているように見えるから、会社で、できませんって最初に言って了承してもらったことでも、電話とか知らないうちにやらなきゃいけない雰囲気になっていたりとか、「できないです」って頼みづらかったり、見えやすいものの隙間にいるのはしんどいこともある。

少し前に、吃音の特集を組むということでテレビの取材をお願いされたことがあった。怖すぎたし、私で大丈夫かなって思った。

だって、言い換えをする癖だったり、回避の癖がこれでもかってくらい私の体にはこびりついてて、家族とか、電話とかそういう時じゃないと吃音の症状が出ないから。気を張らない作らない私でいられないから。

「インタビューをお受けしても、全然吃音っぽい症状はでないかもしれないし、分かりにくいし、吃音特集なのにそれでもいいんですか?」って聞いたら、

「でも見えにくいから辛いこともあると思うんです。そんなちなさんの気持ちを皆さんに知ってほしいです」って取材の方は言ってくれた。その時私は初めて、軽度の吃音でも辛いって言っていいんだって初めて思えた。辛い気持ち持ってもいいんだって。知ろうとしてくれる人いるんだって。

見えにくいものはやっぱり理解しにくい。私だって知らないうちに、優しさで言ったつもりで知らないうちに誰かを傷つけてしまっていることだって絶対あるんだと思う。

だから、自分が欲しい言葉と違うことを言われたとしても、その後分かってもらう努力はしつつ、それでも辛かったら今の私には合わない人だったんだって、期待しないというか一歩下がる勇気も必要だなと思う。みんなに分かってもらうことなんて無理だもん。悲しいけどね。すごく。

あとはやっぱり自分がそうだからか、普通に見られてしまう吃音症の方がいて苦しんでいる人がいるなら、話を聞いて寄り添いたい。前を向けるような言葉とか専門家みたいなアドバイスなんて言えないけど、その人が思っていることを全部受け止めたい。100%じゃないけど気持ちが痛いほど分かるから。それに自分がそうしてもらったら心が楽になるから。辛いことがあっても、分かってくれる人がいるっていう心のつながりが一個でもあると、安心するし、ふとしたときに力になってくれることを知ってるから。

グレーゾーンって言葉をよく聞くけれど、吃音に関しては軽度であろう私も、日常生活を生きていると同じようにグレーゾーンにいる気がする時がある。軽度だからこそ、隙間にいるからこそ生きづらいこともたくさん。右に進むか左に進むかして、何かの枠に収まりたいって思ってばかりいたこともあったけど、もうこれが私だし、自分にないものに憧れて今の自分を傷つけるのはもう疲れちゃった。自分自身に嫌な言葉を言いたくなるし、周りが羨ましくなることもあるけれど、理想を諦めるのも自分への優しさでもあり、強さでもあると思う。

吃音もある自分をまるごと受け止められると、楽になるし、吃音に隠れて見えなかった自分の良い所も考えられるようになってくる。

ありのままの私を知ろうとしてくれる人は絶対どこかにいるって思いたいし、そういう人と出会えるように、私ももうありのままの自分を認めたいと思う。

こんな風に隙間にいるのは自分だけなんじゃないかって思う時もあるけど、
もし同じような気持ちの方がいるなら、頑張りも辛さも見えにくいし、理解してもらえなくて、何の為に頑張ってるんだろうかとか、どっちに進めばいいのかとかわかんなくて、感情なんてごちゃごちゃだし、全部嫌になることもあるし、相談だって簡単じゃないけれど、一人じゃないよってことだけ伝えたい。綺麗事だけど、隙間にいるからこそ見える景色も、見えにくい辛さを抱えている誰かを思いやれる心を持っていると思う。

こうやって隙間にいる私も、進んで止まって、また進んで下がったりしながら、自分が安心できるありのままでいられる居場所を探してる。私とみんなが吃音の辛さから抜け出して自分の好きな事で心と時間を満たせますように。なにか吐き出したい時いつでもDM下さい。


ちな






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