記憶の塗り替え

過去に感じた強い嫌な感情は時間とともに薄れていっても、目の前で繰り広げられた光景だけは色褪せることなく、いつまでも脳裏にこびりついてる。

そういうものなんだろうか。

「吃音」というフィルターをかけて人生グラフを書いたら、中学生のあの出来事で折れ線は下に下がる。そしてその横には、「初めて友達に笑われる」と書き足す。

そんな中学時代のある日の話。


中学で毎日楽しく、かつ何事もなく過ごすために私が自分自身に課していたルール。それは、

吃音はバレてはいけないものだからなんとしても隠し通すこと。


小学生から自分で試行錯誤していろんな工夫の仕方を身につけていたし、
中学生になると語彙も増えて、言い換えが堪能になった。

今までの経験から得た、吃音を隠す無数にある盾を、いかに自然な動きで、いかに自然な言葉選びで、適切に瞬発的に選んで繰り出すかに、神経を使うから、疲れることもあった。

でも、吃音で言えない言葉の多さのわりに、友達からは気づかれたことがなくて、隠せている自分がどこか誇らしくもあった。

普通の人として過ごせてる!!嬉しい!!

って。

このまま隠せていれば、自分は吃音なんて惨めで恥かしいレッテルをはられることなく、みんなと同じように生きていけるんだよねって思ってた。

というか、信じてた。

でも、人生は私に、吃音と生きることはそんな簡単なことじゃないと、突き付けた。お前が感じているその嬉しさは、偽りの嬉しさなんだとばかりに。

誇らしさなど、あっけなく崩壊した。

友達に吃音を見られた。


あの瞬間、自分が今まで丁寧に積み重ねてきたドミノが、ガッシャーン!って心の中で音をたてて崩れた。幻聴なんだろうけど、本当に胸から体中に音が響いた。痛い音だった。

しかもただ見られたんじゃない。

私が一番見られたくなかったあの顔。

言葉を出すために、力が入っちゃって変になるあの顔。

吃音で一番嫌なところ。

教室の後ろは、休み時間の女子たちのたまり場だった。私は女子5人の輪の中にいてガールズトークをしてた。普段は言いたいことがあっても、吃音の気配を感じたら、喋るのを我慢したり、途中で忘れたふりをして話を逸らしたりしていたのに、あの時はなぜか、頑張って言おうとしてしまった。

それほど言いたいことだったのかもしれない。

それに、机に座って喋っていたら、何かを探すふりをして下を向いたり、靴紐を結び直すふりをして、顔を相手に向けないように、最初の言葉を発したりしていたけれど、

その時は立って輪になって喋っていたから、顔を隠す場所がなかった。

喋っているA子ちゃんの方をみんなが向いている隙を狙って、少し俯きながら顔に力を入れて、声出そう!って顔をあげた瞬間、その顔をしたままの私は、右前にいたB子ちゃんと完全に目があってしまった。

言い訳を考える猶予も無いくらい、すぐにB子ちゃんの口は動いて、

なに今の変な顔!あはははは!


もう一回やって!


B子ちゃんがはしゃいで、すぐに私が輪の中心人物になった。

咄嗟に、

変な顔なんてしてた?^^


面白かったでしょ!^^


どんな顔だったか忘れちゃった!^^


その時の複雑な感情は覚えていないけど(嫌すぎて記憶ごと消したのかもしれない)、無条件に目に溢れてくる涙がこぼれないように必死だったことだけは覚えてる。

その時出来る、最上級の作り笑顔で、こぼれてしまいそうな涙に対抗した。

その後は、B子ちゃんによる私の顔真似合戦が繰り広げられたような気がする。どういうわけか、ここらへんの記憶がない。

なんで調子に乗って、「言いたい」と思ってしまったのか、言おうとしてしまったのか、身の程をわきまえず欲が出てしまったのか、数分前の自分の思考を責めた。

隠す盾がないと私はこんなにも目立つ存在で、違う枠に追いやられてしまうんだと痛感した。いつも隠しているこっちの私は絶対に見せてはいけないんだと、より盾にしがみつくようになった。

これはいじめじゃなくて、中学生のノリのいじり。

誰も私の吃音の事は知らなかったし、次の日には忘れたのか、普通に話しかけてきてくれた。私の中ではヤバ出来事だけど、みんなにとっては、「私のふとした顔がおかしくて笑えた」くらいのことで、青春の一ページの候補にすらならない、ただの日常の一コマであって、もう記憶に残っているはずもない。

今でも、力んでいる時の自分の顔はおかしいと思っているし、恥ずかしいし、嫌だから、家族以外には見せられないし、その顔をするくらいなら、沈黙の時間が長くなる方を選択する。マスクもあった方が安心する。


どんなに嫌な経験も、忘れたい過去も消えてはくれない。

でも、





大丈夫。

これからその上にどんどん色を塗っていけるから。

その経験の物語をどんな結末にだって変えることができる。

そしたら、嫌な経験も忘れたい過去も自分だけの強みに変わってくれる。

あの日を思い出しても、もう辛いだけの記憶じゃない。


今私は、あの日の記憶に少しずつ、吃音がある私を受け入れてくれる人の優しさと温かさを上書きしている。

自分と向き合って、自分自身への優しさも。

いつだって、あの傷ついた経験があるからこそ、人より小さな優しさに気づけて感謝出来て、人の痛みがわかる人間になれるし、優しさを強さに、弱みを強さにも変えていけるんだと信じてる。

まだ傷がたまにちらっと見えるし、新しい傷も増えるけど、

この経験も、あの時の感情も、吃音を受け入れたくなかった時間も、きっと私という人間の深みを出す味になってくれるんだと思うし、なっているんだと思う。


辛い経験をした自分を否定しなくて大丈夫。何も自分は何も悪くないんだから。辛かったね。めっちゃ頑張ったよね、って傷をなかったことにせず、その上から新しい記憶の上塗りをして、自分だけの物語を始めればいい。


ちな







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