ストップウォッチとの戦い
中学生の時、定期テストが近づいてくるとやってくる英語のスピーキングテストが不安だった。
筆記のテストとは別に、テスト範囲の教科書文を時間内に適切に読めるかっていう、吃音のある私にとっては、英語の能力とは別の理由で成績が下がってしまう可能性があるテストだった。
吃音があるなんて当時の私にとっては、自分の価値が下がるようなことだった。だから、それを自分から言うなんて選択肢はこれっぽっちもなくて、とにかく練習するのみだった。
塾に通わせてもらっていたこともあって、筆記テストの成績は良い方だった。だからなのかプライドが高くて、「英語が読めない自分」を見られるのが本当に嫌だった。
毎回範囲は、教科書で4ページくらい。読む直前に番号が書かれたくじを引いて、その該当番号の1ページ分を読むのだけれど、幸いにも、空き教室を使って先生と1対1のテストだったので、クラスメイトの前で読むより、だいぶ心が楽だったけれど、それでも吃音が出る可能性に変わりはない。
家で教科書を何回も何回も、これでもかというほど音読した。音読を繰り返すと、決まってつっかえるところが分かってくる。その部分の読みやすいスピード、言いやすい抑揚のつけ方を探したり、気づかれないように足を叩いてみたり、できそうな工夫を試した。
いくら練習しても、厄介者の吃音とやらは本番、平気で予想外のところで現れるから、後はもう、途中でつっかえても時間内に収まるように、英文を早く言えるように、暗記するレベルまで毎回頑張った。
当時の私は、自分を認められる部分が成績しかなかったから、すごく点数に固執していた。だからこんなに必死に教科書とにらめっこしていたのかもしれない。
よーいスタート!という先生の親指の動きとともに走り出すストップウォッチと、私の声の勝負。
3年間全勝という有終の美だった。
でも、ここまでの努力をしないとみんなと同じように喋れない悔しさと、筆記では成績が良かった私に対する、スピーキングテストちなさんはできるでしょという当たり前の空気感が、毎回少しの息苦しさとプレッシャーを生んでいた。
◇
正直中学時代、授業で辛かったのはこのくらいかもしれない。他にも授業でつっかえたりすることはあったけど、それほど辛くはなかった。
それは多分、なにより勉強が楽しくて成績が良かったことで、自信がついていたんだと思う。そんな余裕が、体と心の軽さを生んで、「まあいっか」なんて思えたり、吃音を気にしないことに繋がっていた気がする。
ここまで書いて思ったけど、やっぱり「好きな事」「得意な事」を持つことはすごく大事なんだなあと思う。何より、自分を守ってくれる。
勉強じゃなくても(勉強は、自信が数字に左右されてしまうこともあって、私は高校で進学校にいって一気に自信をなくしたから)、なにか自分が夢中になれるものだったり、得意な事があると、吃音でたとえ失敗したと思っても、自分にはこれがあるっていう安全地帯になってくれる。自己肯定感なんて最近うるさいけど、吃音を認めることは難しくても、夢中になれるものに夢中になることで、結果的に自己肯定感があがるなんてこともあるんじゃないかな、と思ったりする。
できないことを伸ばすこともある程度は大事だけど、強みや好きを見つけて、そこを伸ばして、とんがっていったほうが人生きっと楽しいと私は信じてる。
もし今、中学時代にタイムスリップしたら、無理に精神をすり減らしたりしないで、先生に吃音の事をこっそり伝えて、時間を延ばしてもらえませんかってお願いする。「恐れ」だけが原動力の努力は、成功しても幸せはないし、努力してる最中、楽しさがないから。
◇
それでも、
当時は大変で、なんで私だけって思っていたことも、
今となっては頑張って吃音と向き合って戦ったエピソードだし、
頑張ったよなーあの時の自分、、、
なんて、今の自分を認めてあげられる一かけらでもある。
吃音の事を伝えて、配慮を求めるのは全然悪いことでもないし、恥ずかしいことでもないよ。誰にだって苦手な事や弱い所があって、その一つに私は、言葉が上手く出てこないってのがあるってだけだもん。
ただある。それだけ。良いとか悪いとかじゃないよ。ただある、だけ。
ちな