“普通”
“普通”ってなんだろう。
「普通の人」「普通の人生」「普通の格好」「普通の髪型」…
挙げれば挙げただけ世の中には“普通”がありふれている。
じゃあ私はどうだっただろうか。
幼稚園の頃から英才教育を受けて、小学生の頃は100点以外のテストは捨てられた。
両親の期待に応えることに挫折した中学2年生で
そもそも嫌いだった学校が尚更嫌いになったけれど、
中学3年生で父親が癌だと分かり、余命を宣告された。
当時15歳の私は正義感を振りかざして看護師を目指した。
そこからは両親の思った通りの人生をきっと歩んで、所謂“普通”の人より良い学校に行って、
看護師1歩手前でストーカー被害に遭い、看護師の道を断念した。
両親からは「大丈夫だよ」という言葉と同時にプレッシャーを感じた。
ただひたすら恐怖と自死の隣り合わせとの生活だった。
そんな人生を送っていても幸いにも私は今幸せだと思う。
私は所謂、“バイ・セクシャルシャル”の人間だ。
好きになった人か結果的に男性だったか女性だったかの差で私自身あまり気にしたことは無い。
でもこれは一般的に言う“普通”ではないのかもしれない。
もちろん、理解してくれる人々がたくさんいることも知っているが、一定数受け入れられない人々がいることも理解している。
昨今、LGBTQというワードがクローズアップされてから尚更話題を呼んでいる。
そこでは恰も「理解していな人が悪い」というニュアンスにも聞こえる時がある。
そしてLGBTQを抱える私たち側も「理解しろ」と言わんばかりの行動に出ている人もいる。
さて。
ただ、“普通”という言葉の定義は実に曖昧で、人によってその“普通”のラインは全く違う。
私がもし仮にテレビカメラを向けられて
「あなたはバイ・セクシャルでることを理解して欲しいですか?」と問われたらこう答えるであろう。
そんな小さなことより、誰かを想って幸せな気持ちになったり、淋しい気持ちになったりする方がよっぽどヒトとして自然だと私は思う。
好きって気持ちは儚くも麗しく、寂しくも輝いている。
私の今好きな人は、私に「自分のことが嫌いだ」と言う。
私もそう。自分のことは嫌い。
だけど、その人といる時の自分は好きでいられる。
その“好き”もきっと美しいから。
かたや、ピアスを20個近くも開けて、「個性」と嘘笑いしながら心の穴を埋めていた私と
何個も身体にアートを刻んで、自身の身体を唯一無二にしてきた彼女は
近しいところにいるのかもしれない。
ただ、一つだけ思うのは
一重に貴方は誰よりも愛おしく、誰よりも綺麗だ。
そんな想いを抱えられている私もとても幸せだ。
だから“普通”なんてどうでもいいから
後悔しない選択をして、今を生きていきたい。
自分の感情の赴くままに。
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