100日後に散る百合 - 65日目
7月2日。木曜日。
咲季と付き合ってから、1か月が経った。
一緒にお昼食べて、電話して、デートして。
そういう日々の積み重ねは、着実に私の幸せに繋がっている。
咲季みたいな女の子と、本当に私が釣り合っているかどうか、不安がないわけではない。
けれど、こうして咲季が私のことを好きでいてくれる以上、私は彼女としての責任を果たす必要がある。
私は咲季が好き。
顔が好き。
柔らかい笑顔が好き。
綺麗な声が好き。
体つきが好き。
姿勢が好き。
長い黒髪が好き。
ちょっと冷たい手が好き。
おしゃれなところが好き。
優しいところが好き。
少し意地悪なところが好き。
キスが上手いのが好き。
笑いのツボが浅いところが好き。
意地っ張りなところが好き。
救ってくれるところが好き。
私を認めてくれるところが好き。
私のことを知ろうとしてくれるところが好き。
私の「好き」を受け入れてくれるところが好き。
私を愛してくれるところが好き。
私の中は、咲季でいっぱいだ。
記念日とはいえ、特別なにをするつもりでもなかったのだが、せっかくだからということで、咲季が家に来ることになった。
「あ、財布どっか行った」
帰り支度を済ませていると、リュックに財布が入っていないことに気付いた。
「え、本当!?」
「いや、たぶんあっちの部室にあると思う」
今日は囲碁将棋部の方でお昼を食べた。自販機で飲み物を買うために財布を持っていたことは覚えているので、部室に忘れたのだろう。あそこには璃玖しか部員もいないし、盗られてるということはないと信じたい。
「ごめん、ちょっと取ってくる」
「分かった。私、トイレ寄るから、昇降口で待ってるね」
「うん」
部室までは遠い。
今日は渡り廊下が使えて良かった。というのも、教室棟と特別棟の3階を結ぶこの通路は、雨曝しのために天気の悪い日は閉鎖されてしまうからだ。そうなると教室棟で1階に降りてから、特別棟に行って、そこから目的の階まで行かねばならない。
ただ、雨は降っていないが、晴れているわけでもない。どうも今年は梅雨明けが遅く、ここ最近で快晴が続いた記憶がない。テスト明けで部活が再開したというのになかなか本格化できないと、運動部のクラスメートがぼやいていたのを思い出す。
渡り廊下でトロンボーンを練習する吹奏楽部員の横を通り過ぎ、多目的室3へ向かう。
囲碁将棋部も毎日活動しているわけではないと思うが、璃玖の所在を確認する。
ドアに耳を近づけると、何やら人の声がした。明瞭には聞き取れない。璃玖は独り言を言うようなタイプではないので、誰かといるんだろうか。風薇とか?
コンコン
一応ノックする。
ガタッ
中から、何かが落ちた、あるいはぶつかったような音がした。
「だ、誰ですか?」
璃玖の声がした。
「あー、私、私。財布失くしちゃって」
「オレオレ詐欺ですか?」
「違うよ」
建付けの悪いドアを開ける。
「あれ、璃玖ひとりだけ?」
「はい、そうですが」
「誰かと喋ってなかった?」
「喋ってません」
「…………なんか、顔赤くない?」
「赤くないです」
「なんか、髪乱れてない?」
「湿度が高いからです」
うーん、いやでもなんか、それにしてはクシャクシャしている。
「それで、なんですか?」
「あー、財布をここに忘れた気がして」
「璃玖が来たときは、特に見かけませんでしたが」
「たぶん、机の中とかに…………」
お昼に私が座っていた席に向かう。今ちょうど、クリアファイルが置いてある机だ。
「あ、萌花―――」
「おー、あったあった」
よかった。ちゃんとあった。財布って失くすと本当に心配になるからな。中身も大丈夫そう。
が、その机の上に置かれたクリアファイルが、少し気になった。カウンセリングシートと題された記入用紙が入っている。それ自体は白紙だが、”担当”の欄に河瀬輪という名前だけ見えた。
「これ、河瀬先生の?」
璃玖に聞く。さすがに教室に入った時点で気付いているはずだが。
「え、あ、なんのことですか」
「いや、このファイル。いかにも大事な書類っぽいけど」
「あ、あー。それは」
「私、保健室に届けて来るよ。ちょうど通るし」
「いや、大丈夫です。璃玖が行きますので」
「でも―――」
「璃玖が行きますので!」
「そ、そう」
なんか語気が強い。ロボットみたいではあるが、最近は感情が見えるようになってきた。
まあ、とりあえず財布は無事に回収できたので、部室を後にする。
昇降口に向かうため、特別棟をそのまま下に降りる。
そのつもりだった。
2階に降りようとしたところで、上の方から声がした。とはいえ、4階があるわけではない。屋上へ続く連絡階段だ。もっとも、そこに行っても屋上自体には入れないのだが。
思わず、立ち止まる。その声は、私の知っている人のものだった。
「あの、…………のは、…………なのです。…………ではなく………のに……………………は、いや、……………………………ないのです」
つくしちゃんの声だった。小さい声ながら、壁に反響している。
ただ、
「いやぁっ!!やめてなのです!!!」
突如として、悲鳴のようなものが響く。
さすがに心配になって、おそるおそる階段を上がり、覗いてみる。
もし例えば、男性教師とかに何かされていたらどうしよう。不安なる。
しかし、
「るなちゃん!!」
そこにいたのは、鍵屋るなだった。
なぜ?
というか、そんなことを考えている場合ではなかった。
ギャル子は壁ドンのような姿勢でつくしちゃんを追い詰め、彼女の手首を掴んで逃げられないようにしている。しかも、つくしちゃんの手には財布が握られていた。
カツアゲ?
それとも、いじめ?
そういえば昨日、ギャル子がつくしちゃんに冷たい態度を取っていた。もしかして、つくしちゃんは普段からこんな扱いを受けているのだろうか。
…………ひどい。
確かに、つくしちゃんは背も小さくて華奢で、性格も温厚なので、なんというか、弱そうではある。
”弱い”と形容することで、私も”つくしちゃんを弱き者と見なしている”ということに気付いて少し気分が悪くなった。
しかし、それは本質ではない。弱き者と見なしたのなら、守ればいいのだ。自分が”強い”からといって、弱い者をどうこうしていい理由はない。守らなくちゃいけない。
「るなちゃん!!やめてなのです!!」
必死に抵抗するつくしちゃんを無視して、ギャル子は彼女を押さえつける。そして、その手が右目の眼帯に伸びた。
「やめて!!やめて!!」
私は、あの時を思い出した。
私の誕生日、男たちに囲まれて殴られそうになった時。咲季が救ってくれた時のことだ。
咲季がいくら肝の据わった女の子だからといって、男2人を相手にする勇気を出すのは簡単なことではない。咲季もきっと怖かったに決まっている。それでも、私を守ってくれた。
鍵屋るなはギャルだし、苦手だけど、太刀打ちできない相手ではない。それに、つくしちゃんはもう私の友達なんだ。この状況を見過ごすことなんて出来ない。
でも、なんて言って止めればいい?
私に何ができる?
…………いや、違う。
なんでもいいんだ。
「おりゃああ!!!」
私は手に持っていた自分の財布をギャル子に向けて投げた。もちろん全力ではないが。
財布は流れ星のような綺麗な弧を描き、ギャル子の手に当たる。
そうなるはずだった。
運動音痴の私が、そんなコントロールできるわけがない。
まったく別方向の壁に飛んで、あっけなくぶつかって落ちる。
「も、萌花さん!?どうしてここに!?」
しかし、私の声は聞こえたようで、2人は私に気付いた。
ギャル子は静止して、唖然としてる。
「やい、ギャル……じゃなくて、鍵屋!!何やってんでい!!」
苦し紛れに振り絞った勇気と、財布を暴投した恥ずかしさでテンションがおかしくなっている自分がいた。江戸っ子か、私は。
「弱い者いじめして何が楽しい!?そんなの、本当に”弱い”やつがすることだと思う!!」
ギャル子は依然、口をぽかんと開けたままだ。こいつ、自分のやっていたことに自覚がないのか?
「いや、あの、萌花さん、これは―――」
「もう大丈夫だよ、つくしちゃん。それより怪我はない?」
「いや、ですから、その―――」
「それより、あんたは早く手を離しなさいよ!」
ふっと我に返ったような顔をして、ギャル子が気まずそうにつくしちゃんを解放する。現場を押さえられたことに負い目を感じているなら、最初からこんなことしなきゃいいのに。
が、
「チッ」
舌打ちをしたかと思うと、ギャル子は私の横を走り去って、すぐさま階段を下りて行った。
「え、ちょっと!!待ちなさいよ!!」
「萌花さん!!違うのです!!」
追いかけようとしたところを、つくしちゃんに腕を掴まれ、止められる。ん?意外と力が強いな。
「違うのです」
「…………えと、違うって?」
純粋に意味が分からない。何が?
「るなちゃんは、私をいじめていたのではないのです」
「いや、もしそう思ってるなら、つくしちゃんは麻痺してるんだよ。つくしちゃんが嫌だなって思ったら、それは立派ないじめなんだよ。私から見ても、あれは立派な―――」
「付き合っているのです!!!」
さっき聞いた悲鳴くらいの声量。幼い声がよく響いた。
そうか、付き合っているのか。
「……………………は?」
は? いや待って、付き合ってるって何?
「わたしとるなちゃんは、付き合っているのです。…………さっきのは、るなちゃんが私の右目の様子を診てくれようとしていたからで、その」
「でも、やめて!!ってあんなに叫んで……」
「それは、わたしが目を見られるのが嫌だったのです」
彼女は泣きそうな声をして、うつむいて、右目を眼帯の上から手で押さえた。
「この目はもう濁りきっていて、外からは黒目も見えない状態なのです。そんなの見られたら、絶対に気持ち悪いと思われるに決まってるじゃないですか…………自分の好きな人に、こんなの見せられないのです…………」
じゃあ、いじめられていた訳じゃないのか。つくしちゃんが必死に抵抗していたのは、別に身の危険を感じていたとかそういうことではなかったんだ。
それに、”診てくれようとしていた”という言葉から、ギャル子もきっと興味本位で彼女に迫っていたわけではないのだろうと分かる。
「ごめっ、私、勘違いして!」
「…………いえ、こちらこそお見苦しい姿をお見せしてしまって。そうですよね、あんなとこ見られたら、そう思われても仕方ないのです」
無理に作ってくれた笑顔は、綺麗に潤んだ左目が印象的だった。
「本当にごめん。目のことも、本当は話したくなかったでしょう」
つくしちゃんは緩やかに首を横に振る。
「もう、右目はほとんど見えません。左目はまだ進行が遅いですが、徐々に悪くなっているのは確かです。それゆえに、皆さんにご迷惑をおかけすることも勿論たくさんあるのです。だから、わたしにはちゃんと説明する責任もあるのです」
「…………そっか。困ったことがあったら、いつでも言ってね」
「ありがとうなのです。あ、でも、萌花さん」
「ん、なに?」
「わたしとるなちゃんが付き合ってること、秘密にしておいてほしいのです。るなちゃんが極端に嫌がるんですよ。だから、教室でもすごく冷たくされちゃって、私はちょっと悲しいんですけど」
「分かった。秘密にする」
そこで、私と咲季のことを話そうか悩んだのだが、私たちにも2人で決めたルールがあるし、ここで無暗に話してしまうのも違う気がした。
「…………あの、女の子同士って気持ち悪いとか、思わないのです?」
つくしちゃんが心配そうな顔をする。
「ううん。好きな人と想いが通じているっているって、素敵なことだと思うよ」
壁に当たって落ちた私の財布を回収して、思い出した。
「つくしちゃんがお財布持ってたから、てっきりカツアゲかなとか思っちゃって」
「あ!」
急に大きな声を出される。びっくりする。
「これ、るなちゃんのお財布だったのです!!届けなきゃです!!」
「ありゃりゃ」
「萌花さん、ありがとうございましたなのです!わたし、走って行ってくるのです」
「うん、気を付けて」
ぴょんぴょんと駆けていく小さな背中を見送る。
あ、やばい。
私も咲季のこと待たせてるんだった!!