100日後に散る百合 - 51日目
最近の空模様はずいぶんと情緒不安定で、晴れと雨を繰り返している。
大粒の雨が降る中、今日の放課後も我々は学校に残っているが、その場所は教室ではない。
図書室である。
「貸出業務は先生がやるから、書庫整理だけたまにやってもらえる?」
司書の先生は、年甲斐もなくウインクをしてみせた。生徒にお願いするときに媚びたところで意味もないだろうに。
テスト期間であれ、図書館が解放されている以上、図書委員会の仕事はある。
とはいっても、カウンターには出ずに、基本的には中で勉強してていいらしい。
しばらく、私と咲季は各々の勉強を進めていたが、
ほどなくして、
「萌花、ちょっといい?」
咲季に話しかけられる。
今ちょうど覚えていた英単語が、頭から零れないようにしっかりと飲み込む。
「いいよ、どこ?」
「ここ」
咲季が開いていたのは数学の問題集である。平方根関係の話で、問題そのものに悩んだというよりも、解答を読んでいて前提の部分に引っかかる所があったようだ。
「この√2って、なんで、3/2よりも小さいの?」
「あー、分数と無理数で比較しなきゃいけないのかあ」
話としては中学数学でも扱うけど、やや工夫が必要な部分だ。
「じゃあ、とりあえず、3/2を√の数に変換しましょうか」
「どうやんの?」
「……えと、2乗して√の中に入れて」
「こう?」
「3の2乗は6じゃなくて9ですね」
「あ、そっか」
不安だ。
「はい、で、√の中が9/4になりました。これで√2と比較するにはどうしたらいい?」
「んー」
咲季はしばらく考え込む。眉間にシワ寄せだ。
と、思っていると、急に顔を上げて、なんだか嬉しそうにしている。
分かったようだ。
「分かんない!」
分かんなかったようだ。
不安だ。
「√2も、分数の形にしてあげたら、比較しやすくなりませんかね?」
「…………おお、なるほど」
「じゃあ、分母は何にするといいですかね」
「分かんない!」
「考えて」
ご主人に甘えていたら急に怒られた子犬の様に、咲季はしゅんとしてしまった。可愛い。
「ほら、咲季ちゃんなら出来るよ」
「本当?」
「まあ、咲季次第だけど」
「むむむ、うーんとね、えーとね、…………4?」
「そうだねー!分母が揃ってたら比べやすいねー!」
「萌花、ばかにしてない?」
「してるよ」
「えっ」
義務教育で習うことはさすがに分かってくれていないと、私が教えるのに困る。
「はい、じゃあ√2は、どうなりますか?」
「えー、√(4/2)」
「揃えるのは分母!!」
「は、はい、すみませんっ!!」
私も少し大きい声を出してしまった。反省する。
「√(8/4)!」
「はい、正解」
「やったー」
「そしたら、√2と3/2が比較できるねっていう」
「ふーむ」
とりあえず説明は終わったものの、咲季は釈然としない様子だった。いまいち理解できなかったか。
「まあ、でもこんなことする必要ないんだけどね。3/2って、1.5でしょ。√2は1.4くらいだから、3/2よりも小さいのは突き詰めて考えるところでもないよ」
「√2って、1.4なの?」
「1.4”くらい”ね。1.41421356……その後も小数点以下は無限に続く」
「すごい!萌花憶えてるの!?」
「憶えてるって言うか、中学の時やらなかった?ひとよひとよにひとみごろ、みたいな」
「???」
「語呂合わせね。ちなみに√3は、ひとなみにおごれや。√5は、ふじさんろくおーむなく」
「なるほどね。えっと√2は、ひとおもいにひとごろし?」
「言ってない」
「ひとりの夜に独り言」
「寂しそう」
「人波に溺れた」
「かわいそう」
「富士山ロックフェスティバル」
「樹海コンサートかな」
「すいへーりーべー、獏の夢」
「トゥルースリーパーに付いてくるプレミアム低反発枕じゃん」
「生マーガリンチップスグラノーラ」
「カロリーが心配」
「あっ」
「なに?」
咲季が何かに気付いて、席を立つ。
目で追うと、向かった先にはギャル子がいた。図書館にいるとは珍しい。普段の仲間はどうしたんだろう。
「鍵屋さん」
咲季がギャル子に声をかけたのはほかでもなく、がっつり炭酸のジュースを飲もうとしていたからだ。本を護るため、図書室内は飲食禁止となっている。
「悪いんだけど、飲み物は外で飲んでもらっていい?」
ギャル子の声は小さくてよく聞こえない。
いや、咲季の声がよく通るのか。
「あー、うん、まあ、そうなんだけど、万が一、本が汚れちゃったら大変だから」
どうやら反抗しているらしい。素直に出て行けよ。ルールは守れ。
「え?あ、私も図書委員だよ」
そういえば、あの2人が教室で話しているのは見たことがない。ギャル子は他のクラスメートと違い、咲季に関わろうとしていないんだろう。まあ、それでいい。
「うん、ありがとう、ごめんね~」
ギャル子がペットボトルを手に出て行くのを見送って、咲季が戻って来た。
「おかえり」
「ただいま。鍵屋さんのピアス可愛かったなあ」
ちなみに、うちの学校はピアス禁止である。
「ギャル子は1年のときからピアスしてるよ」
「…………あ、鍵屋さんのこと?なに、萌花、ギャル子って呼んでるの?」
「見た目ギャルじゃん」
「そうだけどさwwwww」
ギャル子は1年の時から同じクラスである。当時からピアスをしていて、髪も染めていたし、メイクもがっつりして来ていた。こんなやつが高校にいるのかと思い、とてもビビった記憶がある。
「でも、よく怒られないね」
「散々怒られてたよ。先生たちも、もう諦めたんじゃない?」
ざまあみろ。そのまま留年するといい。
「へー。でもそうやって、自分を曲げないのってすごいよね」
咲季は妙に感心している。
「大人に何と言われようと、自分の個性を大事にしてるって、かっこいいと思わない?」
言われて、私は中学の時にやった【学校生活にふさわしいのは制服か私服か】というテーマのディベートを思い出した。国語の授業の一環だったと思う。
私服派の多くが「個性を尊重しろ」という主張を盾にしていたが、果たして外から装飾しなければ表現できないような個性というのは、本当に個性なのかと疑問に思った。それは中身に個性がない人こそ、そういう主張をするのではないか?と思った。
制服を着ていても、個性を発揮できている人は現実にいた。
まあ、中身のない私が言えたことではないのだが。
「そもそもルールを守らない人の個性まで尊重してたら、ルールを決めた意味がなくなる、と思う」
「それもそうだね」
咲季は賛同してくれた。
外に出ると、雨は弱くなっていた。
私と咲季はまっすぐ帰らずに寄り道をする。
教室棟と特別棟の隙間、私たちだけの空間だ。
「ごめん、昨日」
咲季が謝ってくる。すっかり忘れていた歯医者に行かなければならなかったからだ。
そういえば、”歯医者”という単語が、歯科医院を指すのって、よく考えたら変だな。
「保健室、カーテン開いてる?」
「開いてるけど、先生はいるか分かんない」
すると咲季は、自分の傘を畳んで、私の方に入ってくる。
「えへへ」
肩を寄せ、無邪気に笑う。可愛い。
傘を持つ私の右手を軽く握って、見つめてくる。
「もし先生いたら、見られちゃうから」
咲季は少し傘を傾けて、小雨みたいな優しいキスをする。