初めて人の「死」というものに際して。おばあちゃんの大往生。
亡くなった。らしい
実家の客間には、白い布をかけられたおばあちゃんが横たわり、腐敗を防ぐためのドライアイスや魔除けの刀、隣には祭壇が置かれている。
あっけなくもあり
一本の足かと思うほど、布をかけられたおばあちゃんの足は細かった。まるでまさに骨というかんじ。
本当に死んでいるのだろうか。ただ眠っているおばあちゃんをみても、何の感情もわかない。
ただそこに死んでいる?おばあちゃんの肉体があるだけ。枕元に座ってすすり泣いている叔母さんの姿をみながら、冷めたというか平常温度の自分を感じていた。
人の死とはなんだろう?
魂が肉体から出る行為を「死」と呼ぶのならば、亡くなった体はもうすでに空っぽの容れ物だ。そんな器を前にして泣き叫ぶ気持ちは、自分のものとして理解ができなかったけれど、親が死んだのならまたそれは違うのかもしれない。
どこかしら、いくつになっても、親の存在は安心感をもたらしてくれる。守ってくれる、受け入れてくれる価値ある存在。
たとえ施設に入ったり、一緒に暮らしてはいなくとも、親の存在は心の支えになっている気がする。
だから、そういう自分を支える支柱みたいなものがなくなって、生きていくよすがを失ったような、この世界に取り残されたような、寄るべのない気持ちを味わうのかもしれない。
そんなことを言って、自分の両親がいなくなったら、何も考えずに悲しみにくれて、後悔や寂しさや感謝、痛みに沈むのかもしれないけれど。
死ってあっけない。
覚悟はできていた。おばあちゃんは99歳。今年100歳を迎える歳だった。大往生だ。
これまで何度も危篤の知らせがあって、救急車で運ばれたり、家族総出で集まることもあった。
それだからか、いざ亡くなったと連絡が来ても、寝ているおばあちゃんの姿を見ていても、病院でほとんど反応がなかったあの時と同じように、ただおばあちゃんがそこに居るという感覚しかない。
ただおばあちゃんはもう二度と現れない。その身体を通してこの世界を体験することができない。それが死ということなんだろう。
もしも、自分に全く関係のないところで、関わってない友だちが死んだとしたら、自分は悲しくなるのだろうか。
生きてようと生きてまいと、私の世界には影響がない。ただ「死んだ」という知らせが来ることで、「私の世界でその人が死んだ」というだけ。
身近な私の世界の中にいる人が死んでしまったら、その人がいた部分の穴を直に感じて、空虚さや無念さなんかを感じるのかもしれないけれど。
あまりにも死に際して動かない自分の心に、冷徹さを感じて不安になる。本当に大事な人が亡くなった時、私はちゃんと悲しめるだろうか、と。
どこか冷めているところがある。世界の見方に関して。
でも、もしも自分の命が危険にさらされたら、冷静さなんかあっという間に失って、無我夢中で生きることに執着するんだろうなあ。
生きること。
前の記事でも書いたけれど。私は生きる気力がなくて、死のうとまで思わないけれど、そんなこんなを考える段階まではきていた。
でも、私が死んだらお母さんは相当悲しむんだろうなあ。親族や大好きな家族に「娘が死んだ」「妹が死んだ」という傷は残したくない。
もし、私に関わる大切な人が全員いなくなったら、違うのかもしれないけれど。
今は、死なないようにしなきゃなと思う。そこまでの苦しみなんか、絶対に与えちゃいけない。この先が、普通に命を全うして死ぬまでの時間が、果てしなく感じてしまうけど
死ぬまでにやりたい100のリスト
おばあちゃんが亡くなる1日前に思いついたこと。
どうせ死ぬのだから、どうせ今やりたいこともなくて生きる気力も失っているのだから、死ぬまでにやらないと後悔することを全部挙げて、それを叶えていく様をストーリーとして世に出したい、ということ。
その先なんてまるでわからないけれど、いつかふとしたきっかけで死ぬ直前に後悔しないように、いつ死んでもかまわないように(そんなすぐ死ぬつもりはないけどさ)
無気力で過ごした期間を悔いることがないように、今みたく生きながら死んでいるみたいに時間を貪るよりかは、そういう活動をしてみてもいいんじゃないかと思った。
おばあちゃんを見て、その思いが強くなったとか、そういうことはないけれど。近いうちに始められたらいいと思う。
好きなユーチューバー「かなたいむ。」さんがタトゥーに入れるほど大切にしている言葉を思いだす。
チャーリー・チャップリン