音楽話<星野源が「うちで踊ろう」から「創造」したもの>
さて、日ごろDJということをしておきながら、振り返ると音楽に関する話をほとんどしていなかったので、1曲に絞って文章を書くという試みをしてみようと思います。今日は2021年2月27日発売の星野源「創造」について。発売から2か月経ってはいますが、この間非常に聞き込んだうえでの初見などを語ります。
失速と停滞の果てに
2019年に発表された大傑作「POP VIRUS」が音楽的な完成度においても商業的な面でも大成功を収めて、星野源はおそらく日本の音楽史に名前を残すクリエイターとして認知されたわけだが、その一方で本人は「燃え尽き症候群」のような状態になってしまった、という。
「自分の中のいろんな条件、ルーティーンをクリアした末にできたアルバムを携えたドームツアーを終えたとき、燃え尽き症候群のようになってしまったんです。もう辞めたいというか、しばらく何もしたくないという気持ちになってしまって。」
(音楽ナタリー インタビューから引用)
そこにコロナ禍があって、彼のみならず世の中の活動が全体的に停滞し、閉塞していく中で、彼が発表したのが「うちで踊ろう」であった。
「うちで踊ろう」については、彼はインタビューでこのように語っている。
3月後半に、土日2日間の外出自粛があったじゃないですか。その辺りから何かできないかと考え始めました。世界の状況を見ても、もう少ししたらもっと長期で外出できなくなるだろうから、家の中に居ても面白がれる仕組みってないかなって。(中略)実際、前例がないから、どれぐらいの反響になるのかわからないし心配してもしょうがないなって。現在のような状況は理想的には思い描いていましたけど、今は「ここまでだろう」っていうのが毎日塗り替えられていくような感じ(笑)。
(「Rolling Stone Japan」Web版インタビューより引用)
こうした実験的な試みを、高い精度で成功に導いてしまうところに、星野源というアーティストの凄みがある。そんな「POP VIRUS」「うちで踊ろう」それぞれの成功を経た2年間が「創造」というこれまた大傑作を生み出した、と言っても、決して大げさではないだろう。
逆行する「足し算」の美学
ここ数年の音楽シーンを振り返ると、いかに余計なものをそぎ落とすか、いわば「引き算」とでも言うべき現象が起きている。2021年3月29日発表の米ビルボートチャート1位、ジャスティン・ビーバーの「Peaches」を聞いてみよう。
基本的にビートとハイハットでリズムを作り、間の中音域は歌とラップで埋めていくという手法はここ数年のチャートを席巻しており、音楽シーンがある種の原点回帰を見せているという見方もできるだろう。
ではそれに対し星野源がどうなのか、というと、彼の楽曲(特にここ数年において)は「足し算」という手法が取られているように感じる。先述の「POP VIRUS」から、タイトル曲でもある「Pop Virus」を聞いてみよう。
単純な比較はできないが、「Peaches」と同じように基本のビートがある中で所々にストリングス、シンセサイザーが入り、それが楽曲に深みを与えている。歌詞に着目するとシンプルで上質なポップソングでありながら、バックグラウンドのサウンドに目を向けると「これでもか!」と言わんばかりにアイデアが詰め込まれた実験的なサウンドの作り方は、現代のトレンドに対しての挑戦状と言わんばかりだ。
こうした王道でありながら実験を重ねた楽曲の作り方は、時に周囲を置き去りにしてしまい結果として商業的には振るわない、というケースが多い。しかし彼の場合「POP VIRUS」の収録楽曲が非常にクオリティの高いポップソングとして成立しており、その完成度には空恐ろしさすら覚える。
「創造」する「欲張りエンターテイナー」
話を「創造」に戻そう。この楽曲はスーパーマリオ35周年に合わせたタイアップソングとして制作されたこともあり、多くのシンセサイザーを用いたテンションの高いサウンドと、任天堂をはじめとしたクリエイターの「創造」ということに対してのリスペクトに溢れた歌詞で、ポップソングでありながら非常に「攻めた」楽曲である。
何か創り出そうぜ 非常識の提案
誰もいない場所から 直接に
独(いち)を創り出そうぜ そうさ YELLOW MAGIC
色褪せぬ 遊びを繰り返して
白人中心社会であったアメリカにおいてのスーパーマリオをはじめとした任天堂の成功、星野源に対して歌うことを勧めた細野晴臣が所属していた「イエロー・マジック・オーケストラ」の影響、全ての「創造」する活動に対するリスペクト…「たった四行でどこまで詰め込んでいるんだ!」と叫びたくなるような歌詞である。彼を評した「欲張りエンターテイナー」という言葉がぴったりの楽曲だ。
さて、この記事を執筆している2021年4月時点で、先述のコロナ禍はいまだ終息しておらず、未だ社会の閉塞感が打破される予兆は見えそうもない。音楽シーンにおいてもそれは同様で、ライブイベントを手探りで始める、という動きがちらほら見えてきた程度である。しかし、この内側に向いた社会の流れが、どういう形であれ前に進む方向に向かった時に、「POP VIRUS」と合わせて、「創造」がエポックメイキングな作品になることは間違いないだろう、と勝手に確信している。「創造」を通じて、文字通り「創り出された」流れに、圧倒的な期待感を抱かずにはいられない、そんな楽曲でした。今日はこれまで、それでは。
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