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存在への喜び
「荷物がたくさん届いてるよ〜」
そう報告を受けて、いそいそと仕事場を出て、事務所に向かった。空港の端から端に移動しなければいけなくて、事務所に行くだけで15分はかかってしまう。その数分前までは、上司のミスをカバーするために奮闘していた。なんで私がこんなことまで...という気持ちがぐっと立ち込めていく。
こういう気持ちというのは煙と同じだ。一回立ち初めてしまえばとても速い。もくもくなんて可愛いもんじゃない。ブワブワと立ち込めて心を包み、仕事に関するあらゆることが黒くくすみ、嫌に見えるようになる。
仕事をする場で、おかしいことをおかしいと言って、こうしたほうがいいと提案はするのだが、それが正当に受け入れられた試しはほぼない。改善を望み、なにかを提案するより、なにも言わないことの方が良しとされてるのを感じると、失望も絶望もして、その会社の未来を見たくなくなってしまう。そこで永遠にとどまって居ろと思ってしまう。でもこうやって諦めてしまう自分も違うのはわかっているんだ。一つの場所に留まれないのは自分のせいだともわかっていた。
そうして仕事を移ったのはもう何度目か...
自分として身につけたスキル、努力はわかっているから自己肯定感は高い方だが、それでも時々心底嫌になる。自分のいる場所を嫌いになったり、絶望するのは辛いことなんだ。あと何回、移ろえば納得できる場所に行き着けるのだろう..それか、いい具合に悟って暮らすことができるのだろう..
そう考えながら、大量の荷物を運ぶ。台車からこぼれ落ちそうなぐらいの紙袋に入った化粧品サンプルの山。化粧品なんて煩悩の塊だ。美しくなりたい欲望を絞った結晶。私はそんな煩悩たちをかき集めて仕事をしている上に、自分の気持ちや主張を決して捨てれない。腐りかけた煩悩を乗せた台車と体でトボトボと歩く。
人にぶつからないように、ゆっくりゆっくり。
なるべく何も考えないで、一歩一歩踏み出すたびに感情を消しながら。
自己実現できない気持ちを消し去るように曲がり角を曲がって出発ロビーの中に入った
その時、
彼がそこに立っていた。
◇
「あれ、え..なんでここにいるの..」
そこに立っていたのは、10代後半から20代半ばまで、12年間付き合っていた彼だった。彼の住まいは中国の上海で、交際期間のほとんどは遠距離だった。日本にはいないはずの人だ。
2人とも唖然としてしばらく棒立ちしていたと思う。
別れてから2年の時を飛び越えたように彼が目の前にいる。それだけで、現在と過去がごちゃ混ぜになって、周りの情景がどんどん見えなくなった。人の往来は線になって背景に溶け込み、建物4階分くらいある高い天井から一筋の光を纏った風がざざっと吹いてきて、私たちを包んだ。0.1秒にも、1時間にも感じられる時空を超えた瞬間。
「びっくりした...仕事中?」
「うん。そっちは、これから日本に一時帰国?」
「いや、帰国してて、今からまた上海に戻るところだよ」
私はその言葉を聞いて涙が出そうになった。
これだけコロナのことが騒がれていても、彼は絶対に仕事場を日本にしようとはしない。それだけ仕事堅気な人だし、何も変わってなかった。日本人なのに中国で仕事をするリスクといつも真っ正面に戦っていた彼だからこその迷いのない言葉だった。それを心から尊敬もした。でも一方でわざわざリスクを取らなければならない場所を、仕事場として選び続けてることを何故なんだろうと全く理解できなかったんだった。
「そっか...。気をつけなよ。」
そう。頑固なあなたにはいつもこれしか言えない。
「ありがとう。きっと大丈夫だよ。」
大きな目をクシャッと細めて、彼は言った。
その笑顔を見て、一番大切な気持ちが心の中にふわっと実った。それは、彼がちゃんと海を越えた世界のどこかに存在してくれているという喜びだった。恋愛でもなく、友情とも違う、ただ喜びだった。
その気持ちは、恋愛の熱すぎる情熱や独占欲、距離によるすれ違いや不安がある状態によって霞んでしまっていた。恋愛という花が萎んで落ちた今、ただシンプルな存在への喜びがきれいなまあるい実となって残った。12年間一緒にいたことは、一つの形として実ったんだ。そんな気がした。
恋愛には様々なゴールがある。結婚という形でゴールを新たなスタートにする人も居れば、そのまま終わってしまうこともある。でもこうやって、新たなスタートにできる場合もあるんだ。もう恋愛感情が戻ることはない。それでも、何にも変えられない心の支えとして、純粋で豊かな『存在してくれていることへの喜び』になることも、あるんだ。
「日本に一時帰国の最後に、こんな良いことがあるなんて。会えて本当に良かった。」
彼が言う。
「私もだよ、ありがとう」
その先は言葉にしなかった。
ちゃんと無事で居てくれてありがとう。
あなたが世界のどこかに居て今も頑張って生きている。だから、私ももう一度、精一杯生きなきゃ。
私は、あなたがいるから。
腐らずに生きていかなければね。
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