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諸子百家のマイナー学派(名家・縦横家・陰陽家・農家・小説家)を紹介する 第2回『縦横家(じゅうおうか)』
諸子百家のマイナー学派シリーズ2回目は、中国の戦国時代において弁舌巧みに相手国の君主を欺きながら外交戦略を練った縦横家(じゅうおうか)を紹介する。
縦横家は前403年〜前221年頃に成立した。
主要人物として蘇秦(そしん)と張儀(ちょうぎ)が挙げられる。蘇秦と張儀は、どちらも雄弁家だったが、その論理の組み立て方に違いがあった。
蘇秦(そしん)
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初めに蘇秦が提唱した合従策(がっしょうさく)について見ていくが、前提として当時の各国の版図は以下の通り。
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参考画像はこちらのサイトからお借りした。七雄と呼ばれる大国だけではなく、全土の小国まで詳しく掲載されているのがとても良い。
縦横家の策は、西方の大国「秦」と他の強国(斉・楚・燕・韓・趙・魏)との関係において用いられた。
合従策とは
合従策の「従」は「縦」という意味であり、従うとか屈服の意味ではない。強国達が縦(南北方向)に結びつき、秦に対抗する連盟を形成する戦略だ。
当時の秦は西方から他の六国を個別に攻略しようとしていたため、それを防ぐための連携策だった。
蘇秦は前330年ごろに六国の宰相となり、各国の繋がりを促した。
一人の人物が6つの国を束ねるという異例の事態だが、彼は各国の王に「あなたこそが支配者の器だ」と持ち上げつつ「秦があなたの国を今にも滅ぼそうとしている」と恐怖心を煽ったと言われている。ほぼ詐欺師だ。しかし始まりは詐欺であっても策自体は意外と上手く働き、秦は各国へ迂闊に手出しができなくなり、戦況は膠着状態となった。
蘇秦の作戦は大成功!と言いたいところだが、しかし早々に崩れる。
想像してみてほしい。
東京都が西方の都道府県を支配しようと画策する。東海から近畿にかけた大都市連合(名古屋、大阪、京都、神戸)が合従の構えを見せるとする。こうなると東京もそう簡単に手出しができない。
しかし、名古屋は「リニアが作りたい」、大阪は「首都になりたい」、京都は「他の県の影響なんて受けたくない」、神戸は「新しいことを取り入れたい」など、それぞれ異なる思惑を胸の内にしまっていてもおかしくない、というかそれが当然のことだ。「東京都の侵略を防ぐ」という共通の目的がかなった後は、未来の事を考えなければならない。ここで行き詰まる。すべての都道府県の願いを平等に叶えることなど不可能だからだ。
誰だって自分が可愛い。ほかの都道府県が憎いわけではないけれど、、、。
狭い日本であっても容易に想定できるこのような事態は、当時の中国でも同様だった。
各国の思惑には差異があり、埋めがたい溝があり、完全な協力関係の構築は困難を極めた。戦争の手法や指揮系統もバラバラだった。飛行機はおろか鉄道すらない時代だから、地理的に秦から遠く戦火が及びにくい斉は、同盟の維持自体にも消極的だった。(秦は斉の心境をうまく利用している。遠方に友好的に振舞い近場を侵略していく遠交近攻(えんこうきんこう)の策だ。もとより他5国との同盟に気乗りしない斉は、相対的に秦と親睦を深めやすかった)
人間社会と同じように、希薄な外交関係は些細なきっかけで容易に崩れていく。時を同じくして秦側にて縦横の術を駆使した張儀の連衡策によって六国はそれぞれが秦から莫大なわいろを受け取ることで次第に分断していく。
「秦と個別に同盟を結んだ方が甘い汁が吸えるのでは??」と、どの国も我欲に惑わされ、縦横家の策略にハマり、自らの首を絞めていった。
合従策の終末に決定的だったのは楚の懐王の寝返りだ。彼は張儀の策略にのせられて秦と同盟を組んだが、騙されて捕虜となり帰国できずに死んだ。
続いて、見事、蘇秦の合従策を打ち破った張儀の連衡策について見ていこう。
張儀(ちょうぎ)
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連衡策とは
連衡策は、秦が6国とそれぞれ外交を行い、賄賂等で誘惑しながら相互の連結をゆるめる戦略である。
「衡」とは度量衡(はかること)とか平衡(バランスをとること)のような意味ではなく「横(よこ)」を示している。ちょうど合従の「従(縦の意味)」と対比される。
ポイントは何といっても各国に「秦と結ぶ方がお得!」と思わせることだ。
張儀はまず楚の懐王に目を付けた。秦と同盟すれば600里四方の土地を譲ってやろうとの甘い言葉にまんまと騙されて、合従策を捨てて秦と同盟を組んでしまった。実際にもらえたのは6里。
張儀の言い分はこうだ。
「600里の中に6里のエリアがあるからそれをあげるよ。 この6里は600里の一部だから、600里という名称で呼んでいたんだよ。 600里なんてあげられるわけないじゃないか」
こちらの記事で書いた白馬非馬論を彷彿させるが、白馬非馬論が無害な机上のアカデミックに終始するのとは対照的に、張儀は人を騙して得をしようとする悪意そのものだ。もちろん懐王は憤るが時すでに遅し。
他5国についても、秦は時に利益をちらつかせ、言葉巧みにだまし、国力を削いでいった。
各国ともに最初は騙されたことに気づくことなく、秦との同盟関係でつかの間の平和をむさぼっていたが、だんだんと弱体化していき、やがて滅亡する。
そして、張儀の暗躍によって秦が中国を統一した。
さて、戦国時代において大活躍した縦横家の後世での評価はどうかと言えば、実はかなり思わしくない。
漢の時代以降、縦横家の思想は政治の中核になることはできず、それどころか策略家や詭弁家としての側面が強調されるようになってしまった。
当時でさえ詐欺師の手法だったので無理もない話だけれど、人心をうまく掴んで利益を引き出す戦略には魅力がある。
まとめ
蘇秦と合従策と張儀の連衡策を紹介した。両策はあわせて縦横の思想として縦横家の形で残っている。現代でも外交において縦横の手法が用いられているが、かつてのように縦と横のふたつで明確に区別できるものは少ない。
戦後の日本ひとつとっても国防面で米韓と親しくして中露の出方を伺いながら、経済面では中露との関係にもある程度のバランスを維持している。絶えず強い緊張状態にあると言ってよい。
つまり、合従策と連衡策の狭間の期間をずっと続けているようなものである。どの国も抜け駆けを許さない。それでいて自国は良い思いがしたいと思っている。にらみ合いの攻防だ。世界は決して一枚岩ではない。
外交の本質は、縦横家の時代から変わらない。どの国も自国の利益を最優先にしながら、同時に他国との関係性を築く必要がある。
蘇秦と張儀の策は、今もあまねく世界で繰り返されているのだ。