銭湯でクジラを見た日
大阪のとある銭湯に行った時である。
そこはホテルに併設されており、銭湯とは呼び難い形式かもしれないが、大阪市内でも有数の高評価がされており、足を運んでみた。
そこの銭湯の入浴代は一般料金が2.500円。
夕方5時以降だと、1.250円で入ることができる。
通常の銭湯よりはやや高いが、
たまにどうしても行きたくなる時がある。
なぜ、そこの銭湯ではないとダメなのか。
それは、温冷浴にある。
普段、銭湯に行くと湯船で体を温めて、
その後にサウナへ入ることが僕の通常ルーティーンだが、ここの施設ではサウナがあったことを忘れるくらい、温冷浴に夢中になってしまう。
温冷浴とは、熱々の湯船と、キンキンに冷えた水風呂に交互に浸かることを指している。
これをずっと繰り返すと、身体がギュッと引き締まり、血流が全身に送り出されるのを五感を通して感じられる。サウナとはまた違った一種の快楽への手段なのだ。心臓から送り出される血流の鼓動を手足、足先、脳で感じるためにも今日も熱々の湯船に浸かる。
ここの銭湯は深さ150cmくらいある大きい湯船が2つ並んでいる。1つは熱々の湯船。もう1つはキンキンに冷えた湯船。
まず、熱々の湯船に肩までつかる。
しかし、10秒も経てば、全身の皮膚が焼かれているような錯覚に陥る。石川五右衛門が子供を両手で支え、釜茹での刑にされていても動じなかったことを尊敬する。
僕は普段、この熱々の湯船に1分間浸かるようにしている。そして、浴槽から出る。そのまま、隣のキンキンに冷えた水風呂で身体の熱を冷ます。
僕の体は既に首から下は茹で蛸状態になっている。
ジュワッという音が聞こえそうなくらい蒸された僕の身体に冷水が全身を包み込む。このままどこかに落ちてしまいそうな感覚になる。脳がふわっと揺れ、魚が絞められるように、僕もキンキンの水で全身の血流をギュッと締められる。この時の快感がたまらない。身体にメリハリができ、首より下が引き締まるのだ。
これを交互に繰り返しているとき、
鍛え上げた身体を見てくれと言わんばかりの好青年、いや、30代半ばの男性が現れる。
きっと、仕事で疲れた身体を温冷浴で癒しにきたのだろう。その男性はスーツが良く似合うと想像できる。
この男性はよくこの銭湯に足を運ぶのか、躊躇をせずに、熱々の湯船へ足を入れる。そしてそのまま有無を言わずに肩まで浸かる。その一連の所作はまるで、食事を出された時はいただきますと手合わせるのが普通だと思っているくらい、当たり前のような顔で目を瞑っている。
この男性、できる。
銭湯力が高いな。
僕は内心こう思う。
銭湯力とは何か、
それは僕にもまだ分からない。
ただ、銭湯に適し、おどおどせず、
自分の家のお風呂のように彼は肩まで湯に浸かっている。
しばらく彼の様子を観察してみる。
彼は今、熱風呂にいる。
僕は今、水風呂にいる。
熱々の湯船に浸かろうと、湯船から体を乗り出し、一旦、外の風を受ける。そして、湯船に入ろうと思ったその時、彼の姿が見当たらないのに気付く。
あれ、さっきまでいたよな、と思い、少し周りを見渡すと、彼は水風呂の方に移動していたのだ。
なぜだ。
浴槽間の移動をする際に僕とすれ違ってはいない。
一瞬、テルマエロマエのように、風呂底の排水溝から隣の浴槽へと繋がっているのか、と疑問に思うがそうでもなさそうだった。
そして、僕が熱風呂から水風呂に移動しようかと思ったその時、目の前にイルカ、いや、クジラが現れたと思った。
なんと彼が、浴槽を隔てている平らになっている浴槽の淵に身をまかせ、綺麗に寝そべったまま1回転し、そのままバシャーーンと大きな水飛沫を吹き上げながら、僕の目の前に転がり落ちたのだ。
え?!?!
僕は銭湯でクジラを見た瞬間だった。
彼は何事もなかったかのように、目を瞑り、肩まで湯船に浸かっている。僕はもう、笑ってしまうのを堪えるのに必死である。
僕が水風呂に浸かっている時、
目の前が水の泡で真っ白になる。
そう、彼がこちら側へ泳いでやってきたのだ。
浴槽から浴槽へ渡るその瞬間はまるで、大きなクジラが海面で水飛沫をあげ、呼吸するのと同じように無駄のない、華麗な動きで僕を惑わせる。
そして、僕も思う。
なるほど。確かに、浴槽から浴槽へと移動する際に、浴槽の淵を転がり反対側の浴槽へ行く方が効率が良いかもしれない。
僕は彼を真似し、熱々の湯船に転がりながら落ちてみる。しかし、身体の回転数が足りなかったのか、湯船に顔面から滑り落ちてしまう。
思わぬ熱さに飛び跳ねるように浴槽から出る。
身体の背面から落ちる分には熱さの分散もまだできそうなものだが、前面の脳天から足先まで、身体の前半分のみ真っ赤に染まった僕を見て、彼はまだまだだよ、といった表情を僕に向ける。
おそらく彼の中で、芸術点も加味しているのだろう。いかに水飛沫を上げるのか、浴槽の淵での寝転び方、スムーズさ、全てが評価され、彼の温冷浴の満足度にも繋がるのかもしれない。
その後の僕は、(勝手に)審査員を兼ね、浴槽の近くにベンチを移動させ、彼の温冷浴を拝見していた。
まるでそれはホエールウォッチングに来たのかと思うほど、彼は1人で淡々と浴槽間を転がり続け、全身を真っ赤に染め、何食わぬ顔で目を瞑っている。
僕は大きなクジラを見ている気持ちになりながら、銭湯力の高い彼を横目に、浴室内に貼ってあった張り紙に目を通す。
「温冷浴をせずして帰る人は、高級レストランでライスだけを食べて帰るのと同じである」