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「人が喜ぶ姿が嬉しい」という考えは実は危険だということ。


Prologue


たまに屈託のない笑顔で
ぼく、人が喜んでる姿が一番幸せなんですよね」と
キラキラとした目で話す人がいる。
こういう人種は私と違って眩しすぎるので、常時サングラスかけてないと関われない。
私には一生言えない言葉ではなかろうか…




支援職に心を壊す人が多い理由



以前かめスクで投げかけた質問


たくさんの支援者と関わってて思うのが、みんな
支援者はこうであるべきだ」という、うっすらとした呪縛に縛られている。

現に私も医療職であったときは節度ある格好をして、患者さんには丁寧な対応をして、へりくだって関わって、そしてなにより失敗してはいけない現場にいた。人の命と関わるということはそうなのだ。

支援者は心根が優しい人が多い。
相手が苦しんでいたらどうにかしたいと思い、世のため・人のために生きている人がとても多いのではと思う。

そして、「自分のことよりも相手を優先」にする人が多い気がする。

「相手の喜びは自分の喜びです」というなんとも素晴らしい思考。

もちろんそうでない人もいるからね


尖った言い方になるが、支援者にうっすらまとう呪縛に「眼の前の方の喜びや幸せを一緒に喜ばなくてはいけない」というのもなまじっかある気がする。
もちろん「この人の人生の喜びをともにしたいと思う気持ちが自然とでる」
というナチュラルな感情はとても素晴らしい!のだが、

どうしても要所要所で”〜しなければならない”がある気がする。

もともとの性格なのか、育った環境なのか、なにかの出来事がきっかけになったのか「相手ファースト」な行動をする人が多い。

もちろん中には「患者さんのためとか一度も思ったことなくて、ただ自分が勉強したことが結果として出たらよっしゃーって思う」っていう運動器のPTもいたし、「ただただこどもと関わるのが癒やされる」っていう理由の保育士さんもいるし、あたりまえに様々な支援者がいる。

ただこの「相手ファーストな支援者」に多いのが、優しすぎて自分の感情をなおざりにして、自分の心を壊してしまう人だ。




壊れた心が立ち直ったとき、以前よりも強くなると言うけど、私はあんまりそう思わない。
ヒビが入ってくっつけたグラスはそうでないグラスに比べて割れやすい。
折れた茎をくっつけてまた伸びていく花も、いびつな形で伸びていく。
できることなら心を壊す経験は無い方が良いと思っている。

私は大切な人を亡くしてしまった。
壊れた心が戻らなかった人が、この世からいなくなってしまった。


自己肯定感の出生場所


色々言ったが、もちろん人が喜ぶ姿を見るのは私もとても幸せだ。

ただこの「人が喜んでる姿が嬉しい」の感情を分解すると
"自分がしたことが認められた””という外部からくる自己肯定感なんだとおもう。

もし仮にこれに依存してしまってたら、自分の幸せは相手の感情を勝手に判断して一喜一憂してしまい、仮に喜んでくれなかったときのショックに苛まれてしまう。


私は結構「愛理のためにこれを用意したよ!」の場面が苦手だったりする。いやもちろん自分のことを考えてくれたことがすごく嬉しいし、それ相応のリアクションはできるんだけど心のなかで
(リアクションが薄かったらこの人は不幸になるのかな。。。リアクションしなきゃ。。。)みたいな感じでリアクションとるのがプレッシャーに感じる(やなやつw)


shoud be(〜であるべき) じゃなく want to(〜したい)で生きよう


まぁみなさん察していると思いますが、私がこれを書くということは自分自身ができていないので、考えて言語化したわけでございます。
一番がんじがらめになって、一番苦しんでいるのはきっと自分自身だったよってこと。

ただ、結局のところ「自分が嬉しい」「自分がしたい」ということにおもきをおいたとき、「あなたが喜んで嬉しい私」の「私」が軸になっていればいいのかなともおもいます。


⇣それでいての恋愛理論を書いたやつ



鬱は大人のたしなみですよ。それぐらいの感受性を持ってる人じゃないと、俺は友達になりたくないから。こんな腐った世の中では少々気が滅入らないと。社会はおかしい、政治は腐ってる、人間の信頼関係は崩壊してる、不安になる。正常でいるほうが難しいですよ。

リリー・フランキー



⇣かめきちのあれこれ


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