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出会いをつなげていくこと

傷つきに出会う

 こどもと出会うとき、わたしはそこに自分のちいさな頃の姿を見出すことがたびたびある。実際に経験したことを重ね合わせることも稀にあるが、どちらかというと、より深い感情や無意識レベルのものを一致させ、こどもの語りにちいさな自分を追体験させているような感覚である。

 こどもの生活や感情にイメージを開くと、目の前のこどもの、本来の姿に出会うことができる、ような気がしている。
 もちろん最初から等身大で、こころと身体がそれなりに繋がっていて、ひとりの子どもとしてきちんと尊重されているような、かろうじて健康さが守られているこどもも沢山いる。
 しかしながら、わたしの働く領域では、五感の一部を切って、感情を閉じ込め、発達の可能性を早期の段階で取り上げられてしまったこどもたちとの出会いの方が圧倒的に多い。
 そして、その要因の多くは養育者の不適切な関わりである。

 家庭に潜む、通常では考えられないほどの緊張感。暴力を直接受けることはなくても、養育者から無視されること、養育者が弱っていることなども、こどもにとっては生命の危機である。
 そのなかで、生き延びていくには柔らかな部分を固く閉ざして防衛する必要がある。柔らかで傷つきやすい心を守るには、鉄壁の鎧を身につけざるをえないのである。


どこで、だれと出会うか

 人生は出会いの連続で、さまざまな局面で誰かと出会い、その人との関係性の中で、傷が癒されたり、良いものを取り込んで自分を形作っていったりする。
 これは人が発達していくため、社会を生きていくうえでごく当たり前のようにやってきている場合が大半であると思われるが、身を預けること、良いものを選別して取り入れることは、案外難しいことであったりする。

 アタッチメント対象(主に養育者)から虐待を受けている場合、拠り所であるはずの場所が不安の源泉となる。危機的状況のときに、くっついて守られたいが、守ってくれるはずの対象が危険の源なのである。

 そういった関係性の中で育つと、たいていは自分で自分を守らざるをえなくなる。そうすると誰かに身を預ける方法がわからないうえに、それを心地よいとは感じられなくなってしまう。
 
 出会いはあってもその出会いや治療的関係性を「使うことができない」のである。

 虐待者である養育者も、こども時代にサバイバルし、良いものを利用できないまま(あるいは取り込んだとしてもそれを発揮できる環境が整わないまま)、大人になってしまった場合が多い。
 それでも破壊的なものに呑み込まれてしまうことなく、かろうじて踏ん張っている養育者の場合、人生のなかで何かしら良いものに触れ、そこに支えられているものがあるのだろうな、と感じたりする。

 保育所の先生、養護教諭、笑顔の優しいコンビニ店員、近所のおばあちゃんなど、カウンセラーだけでなく、拠り所や道標となる人は人生のあらゆる場面で現れ、本当に必要なときにその出会いや関係を利用できれば、つらい人生もなんとかなっていくものだろうと希望的観測を持っている。


想像を開いていくこと

 目の前のクライエントにとって、今どの関係性が必要で、何を利用できればよいのかを考えていくことが、いわゆる心理アセスメントにもつながっていくのであろう。

 そのときに、さまざまな人の人生、その人のこども時代、あるいはこどもが大人になっていくとき、どんな困難に直面するか等、支援者側にイメージが持てることは臨床の強みになっていくと思う。
 その人の傷つき、生活のにおいや空気、寄る辺ない孤独感、あるいは希望や安心感など、あらゆる感覚や感性が開かれていくと、その人に寄り添いやすくなったり、面接の中で何か可能性を持てる気がしてくるのではないか。

 そして今必要なものを提供しつつ、次に訪れるであろう出会いに備えて、関係を繋ぐ土台をクライエントとともに作っていくことが臨床の醍醐味ではないかと思う。


 こどもと家族研究会は、セラピーやアセスメントを行っていくうえで、こどもから大人までを事例検討会を通して網羅し、臨床力の向上につながればという思いで仲間を募って毎月開催している。
 しかし、思いがけず関西圏のあちこちからより集まったメンバーでつながりができ、臨床力の向上というより、臨床を続けていくうえでの小休憩のような機能がメインになりつつあるようだ。
 安全で何か栄養を取り込めそうな場として、この会が利用され、結果として各々が受け持つケースにとって利益が生まれれば、本望である。




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