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子ども時代に出合う本 #14 4~5歳児と絵本

「もう一回読んで」という絵本


 前回、3~4歳の子どもたちが何度も「読んで」と持ってくる絵本を紹介しました。Facebookに投稿すると同じように子どもたちに本を手渡している方々から、「この3冊、選り抜きですね」「好きな絵本です」と言う感想が寄せられました。

 さて、この何度も「読んで」って持ってくるってどんな意味があるのでしょう?おとなは一度読んだら、もう内容もわかっているから、繰り返し読む必要はないと思いがちです。

 もう15年以上になりますが、図書館に勤務していたことがあります。その頃児童室のカウンターでよく見かけた光景のひとつに、子どもが「この絵本を借りたい」とカゴに入れてもってきたのをみて、「この絵本、この前も借りたでしょう。ほかのにしなさい。」と親が強く言う姿がありました。

 できるかぎり「この絵本、お気に入りなのね。何回も読んでもらうのって嬉しいよね。それに読むたびに新しい発見があるよね」などと援護射撃し、保護者の方にはお子さんの想いを大事にしてほしいと声かけをしていました。それを聞いて納得してくださり貸出手続きに進む場合もあれば、出来る限り多くの種類を読ませたいのだと半ば強制的に親が書架に戻してしまう場合もありました。

さて、この繰り返し読むということにどんな意味があるのでしょうか?

 私は、子どもにとってその絵本がその時の子どもの成長に寄り添い、心の居拠り所になっているのだと思っています。繰り返し、その物語の中に入り込んで、主人公と一緒に物語を生き、そして戻ってくる。そして安心する。

 そんなことを確信したのは、長男が4歳の時に繰り返し繰り返し幼稚園の図書室から『スーホの白い馬』(モンゴルの昔話 大塚勇三/再話 赤羽末吉/画 福音館書店 1967)を借りてきたことからでした。


成長に寄り添ってくれた『スーホの白い馬』


『スーホの白い馬』は国語の教科書に取り入れられており、知っている人も多い作品です。

あらすじはこんな感じ・・・

   モンゴルの大草原に暮らす羊飼いの少年スーホは、ある時白馬の子どもを拾ってきます。そして大事に世話をして白馬を優駿に育てました。ある時、殿様が優勝した者を娘の婿にするというふれこみで競馬大会を開きます。スーホの白馬は飛ぶように草原を駆け優勝しましたが、殿様は貧しい身なりのスーホを見るなり約束を反故にした上に白馬を奪います。ところが殿様が自慢げに白馬に乗ろうとしたした途端、白馬は殿様を振り落としてスーホのもとへ逃げ帰ろうとします。矢を射られて瀕死の状態で戻ってきた白馬。スーホの必死の看病の甲斐もなく白馬は死んでしまいます。悲しみの中、ゆめの中に現れた白馬のお告げを受けてスーホはその骨で馬頭琴を作ります。その音色は草原に美しく響きました。壮大な風景画とともに心を揺さぶられる名作です。

 この絵本を描いた赤羽末吉さんは戦前満州に移住し、仕事で内蒙古に出かけモンゴルの大草原に暮らす人々の様子を写真やスケッチに収めていました。終戦後、日本に帰国する際に命の危険を冒してその写真や絵を持ち帰りました。そして、一旦月刊絵本として描いた絵を全面的に描き直して、1967年にこの絵本を出版しました。
 そのあたりのことは、赤羽末吉氏の息子嫁である赤羽茂乃氏の著作『絵本作家  赤羽末吉 スーホの草原にかける虹』に詳細が記されています。評伝としても素晴らしいのでぜひ読んでみてください。




 長男は4歳の時、幼稚園の図書室から毎週この絵本を借りてきました。名作と知りつつも暗いお話なのでまだ早いと思っていたのですが、息子は夢中で聞きました。殿様が約束を反故にして白馬を奪うところでは歯ぎしりをして怒り、傷だらけの白馬が息も絶え絶えにスーホの元に帰ってくるシーンでは涙を流し、馬頭琴が草原に美しく響き渡る最後でホッとした表情になるのです。そして返却すると、また次も借りてくるのです。とうとう、お気に入りの一冊として購入しました。

 この絵本を手に取って読んでもらうことで、この物語の中に入り込んでいった息子ですが、手に取ったきっかけは#09 1歳児と絵本に書いたように、赤羽末吉氏の描く表紙のスーホの強い目にあったようです。

 


 おとなが判断する色彩の明暗や絵柄の可愛さで子どもに絵本を選ぶのは違うんだと深く印象に残りました。息子はこの物語の世界に入り込み、スーホに感情を移入し、理不尽さを体験し、また正義とはなにか、幼いながらも直感的に感じ取っていたのです。

 
 子どもたちは人生経験も少なく日常生活の中でいろんな感情を理解することは難しいのですが、こうやって優れた物語に出合うことで主人公とともにさまざまな感情を共有し、体験していくのです。その体験は実際にそういう場面に遭遇した時に、心に寄り添い勇気を与えてくれます。息子は、今では正義感の強い人に育っています。

 


お気に入りの一冊がある幸せ


 #10 2歳児と絵本にも、松岡享子さんの『子どもと本』(岩波新書1533 岩波書店 2015 )の2章から、「くりかえし読む」という部分を引用しています。

#10で引用した箇所に続いて、次のような文章があります。

 今は、非常に数多くの子どもの本が出版されています。けれども、子どもの場合、ことに幼い子どもの場合、数多く読むことがいいこととはいえません。むしろ、数は少なくてもお気に入りの本があり、それをくりかえし読んで、たのしむことができる子どものほうが、ほんと実質的な、深い関わりをもっていると思います。つぎからつぎへ新しい本を読んで、そのなかに「わたしの一冊」「ぼくの一冊」といえる本を見つけられないことのほうが、むしろ心配すべきことのように思います。どうか、「ああ、またか!」と思っても、つきあってあげてください。そうすれば、ある日、ふいにその本から卒業するものです。(p90)

 このようにお気に入りの一冊があったということは、幸せなことだったんですね。もちろん、いつのまにか卒業していきましたが・・・


周囲の人との関わりの中で育つ

 
 4~5歳になった子どもたちの特徴と言えば、自己中心性を脱却して、友だちや周囲のおとなたちの関わりを積極的にもつようになるということです。

   2~3歳のころは、友だちと一緒にいてもまだそれぞれが自分の世界で遊んでいて、いわゆる並行関係です。


 幼稚園の年中くらいになると、友だちと協力して同じ目的に向かって、イメージを共有して遊ぶということが出来るようになります。ことばで自分の考えていることを伝え、相手のやりたいことも聞いて理解し、それをすり合わせながら一緒に遊ぶことができるのです。


 この1年ほどの成長は、見ていて面白いなあと、幼稚園の教諭をしていたころに感じていました。もちろん個人差はあって一律ではないのですが、語彙が増え、集団生活の中で協調性を獲得していく子どもたちの姿は、生きるエネルギーに溢れているようです。

 以前にも引用したことのある今井和子氏の『子どもとことばの世界―実践から捉えた乳幼児のことばと自我の育ち』(ミネルヴァ書房 1996)の中にその時期の子どもたちにおはなしを語ることや、絵本を読んであげることの意味が次のように綴られています。

 おはなしは、いうまでもなく、ことばだけで子どもたちを想像の世界にひきこみ、聞くたのしみを育む文化財です。おとなとは異なり、まだことばを文字におきかえられない幼児にとって、音声をイメージにかえていく力が重要になります。子どもたちは、おはなしを聞きながらことばのイメージを描き、それを操作していきます。時には、知らないものでもイメージしてみる力をつけたり、もちあわせたイメージをつなぎながら新しいイメージを合成していくわけです。
 絵本の場合は、読んでもらうことばを聞きながら、絵をみつめ、自分の頭の中にその場面をきざみ、静止している絵の映像を動かしていきます。その絵に出てこない部分は、頭の中で補っているのでしょう。
  (中略)
 ことばで考えることができるのは、ことばによって現実を認識するというだけではなくことばによって、現実からはなれ、容易に操作することのできないものをイメージとしてよびおこし、現実にないもの(原因や理由)を現実に結び付けていくことなのでしょう。
 幼年期は耳の時代です。ことば(音声)を聞き、それをイメージにおきかえていく力こそ、幼年期に十分育みたいものです。
 そういう意味では絵本やおはなしなどの文学のことば体験の果たす役割は実に大きいものです。話し手である親しいおとなが、日常生活の中で話す話し方とはちがうことばで語りかけます。大半は架空の世界のできごとです。そこで子どもは、こどばの多様さや日常生活場面とはちがうことばの使い方を知り、そうしたことば表現によって、現実とはちがう世界をつくりだせることを味わっていきます。そしてリズミカルで心地よいことばとともに豊かなイメージを描きながらおはなしの世界を思考していく力が養われます。
(p139~140)


  「耳から聴く読書」・・・つまり読んでもらうという体験が、この時期の子どもたちのことばと精神世界を豊かにし、またそれが友だちとの関わり方をも豊かにしていくのです。

 次回は、この「耳から聴く読書」について、特に文字を読めるようになってくる時期の子どもたちにとって大切なポイントをお伝えしたいと思います。

(続く)

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