「新しい社会主義」とは何か?
新しい社会主義について考えてみたい。
最近話題になっている言葉で気になっていたので少し考えてみた。
独断と偏見の結論から言うと、
「新しい社会主義」とは、
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行きすぎた資本主義により経済格差や、環境破壊がおこっていることに反発し、
(SDGsのような?!)みんな共有の課題を見極めて、
それを解決するために、
国際協調や、環境税という政治手法により、エシカルな消費をすすめたり、
スマホを使って、物やサービスやニーズやルールをシェアするコミュニティで
共有課題を解決しながら、みんなで豊かになっていく動き
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です。
その詳細を書いていこう。
資本主義は、行きすぎると桁違いの経済格差となる。
また、地球資源を価格の理屈で使い尽くすことができてしまう。
世界は、そんないきづまり感を感じ始めている。
みんなの課題が、見えてきたのだ。
それが例えばSDGsのようなものだ。
対照的に、日本の昔の農村社会をイメージしてみてほしい。
農村にはルールがあって、それを破ると村八分にされてしまった。
お金を持っていても、それを破ることはできなかった。
それが厳しい自然で、村が生きる道だったのだ。
例えば、農村におけるシェアシステム。
エネルギーである薪は、みんなの林、入会林(いりあいりん)で採ることができた。
もちろん必要以上に採り尽くすことはできなかったし、手入れの共同作業には必ず参加する必要があった。
ルール破りは、村八分として罰せられた。
燃料を確保するというみんなの課題を、みんなの林からルールに基づいて採ってこれるという解決をしたのだ。
入会林のようなシェアリングシステムは、現在もわずかながら残っている。
例えば、古くは、お葬式をするための自治会館や、結婚式をするための公会堂などがそうだった。
自治会から市町村レベルにもなるが、公園や、公民館の貸し会議室、グラウンド、図書館、公共交通機関などもみんなで所有しているものだろう。
英語でいうコモンズだ。
しかし、このような農村コミュニティは、現在ほぼ虫の息だ。
農村が、課題を共有する地域共同体(コミュニティ)だったのが、
すでに課題を共有していないのが理由だ。
地域住民が近所の人と共有する課題はほぼない。
薪も、お葬式の場所も、結婚式の場所も、お金を払ってそれぞれが手に入れるようになった。
つまり、隣近所の住民とは課題を共有していないのでコミュニティにならないのだ。
だからといって、地縁以外のコミュニティ(課題共有共同体)がなくなったわけではない。
例えば、身障者保護者の会などは、グループラインなどでつながっていて、お互いを助け合っている。
なんとなくルールをシェアし、送迎や見守りなどの相互フォローをしているという。
課題が大きいからこそ、コミュニティで共有し、助け合う必要があるのだ。
共有課題は、何も困りごとだけではない。
夏祭りを実行委員会で進めようという目的(課題)で集まるコミュニティや、
共通の趣味を楽しみたいという目的(課題)公民館講座サークルなどでも、
目的(課題)を共有し、集まり、行動している。
20年前と比べて、通信コストが金額としても手間としてもかからなくなった。
物理的に集まらなくても、一度に集まれるようになった。
グループラインによる連絡なら、簡単にみんなに無料で伝えられる。
これによって、コミュニティができあがっている。
またコミュニティというと複数人グループだが、
マッチングアプリやメルカリでも、課題を相互に共有し解決している。
グループライン、メルカリ、マッチングアプリ…
スマホの中に、シェアリングがつまっている。
つまり、これからは、
その先に、昔の農村コミュニティとは違う運命共同コミュニティをそれぞれが複数持って、
それを相互に解決し合うという世の中になっていく。
そのためには、
政治的に言えば、課題をうまくみんなの課題として協調できるようにする政治力、説得力、調整力が必要だ。
また、コミュニティ的に言えば、課題や目的をうまく共通のものにするカリスマ性や言葉の使い方が必要になっていく。
後半、
「新しい社会主義」と「シェアリングエコノミー」がごっちゃになってしまった気もしますが、これからおこりそうな、新社会主義について考えてみました!
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