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日本橋映画祭×地球のしごと大學シネマ 想田和弘監督『港町』 in サイボウズbar

こちらは、2019年2月3日に行った上映会のレポートです。

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今年1回目の「地球のしごと大學シネマ」では、再びサイボウズさんとタッグを組み、想田和弘監督の『港町』の上映会を開催。

NY在住の監督とオンラインで感想共有するという、他では類のない上映会に、たくさんの方々が東京日本橋タワーに集まった。

地球のしごと大學シネマ                       現代社会が抱えている問題や、失いつつある価値観をテーマとした映像作品の上映会を実施しています。 映画の鑑賞だけでなく、監督や関係者をお呼びしてのゲストトーク、参加者同士での感想共有・意見交換、舞台となった場所へのフィールドワークなど、映画に因んだワークショップにより、同じ興味・関心を持つ仲間同士が出会い、社会問題への理解をより深められる場を創出していこうとしている活動です。


想田和弘監督
映画作家。1970年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒。93年からニューヨーク在住。台本やナレーション、BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。日米多くの大学に招かれ講義・講演を行っている。

今回の監督トークの実現にあたっては、『港町』の配給会社である東風様にご協力いただいた。上映会の企画とともに、監督への出演依頼を考えているとお伝えすると、快く連絡を繋いでいただき、監督との日程調整、トーク内容の吟味、ビデオ通話のリハーサルを経て、無事当日お話を伺うことができた。このレポートにて、想田監督と東風様に改めて感謝の意を表したい。


『港町』想田和弘監督 観察映画第7弾!

比類なき映画体験。ドキュメンタリーの驚天動地。美しく穏やかな内海。小さな海辺の町に漂う、孤独と優しさ。やがて失われてゆくかもしれない、豊かな土地の文化や共同体のかたち。そこで暮らす人々。静かに語られる彼らの言葉は、町そのもののモノローグにも、ある時代のエピローグにも聞こえる。そして、その瞬間は、不意に訪れる……。

『港町』は、瀬戸内のエーゲ海と言われる岡山県牛窓を舞台とした観察映画(※1)。

観察映画には特定のメッセージはない。これは監督が自らに課している映画を撮る際のルール(※2)で、監督のドキュメンタリーに対する姿勢が表れた撮影手法。一般的なドキュメンタリー映画の制作過程とは一線を画す方法論に、運営側の我々もどうすればその魅力や素晴らしさが伝わるのか、告知には少し苦慮した場面もあった。

※1 観察映画についての覚え書き

※2 観察映画の十戒


また観察映画ではナレーション、テロップ、BGMを用いず、監督がその場で見た現実をほとんどそのまま映像化している。そのため、映し出された対象の見方を限定的、画一的にすることなく、観客が能動的に登場人物の所作、牛窓の景色、場面毎の出来事を観るのと同時に、各自の記憶を呼び覚ましながら、想像力の赴くままに映像と向き合うことができる。

端的に言えば、我々はこの映像の中に入っていき、その町を歩くように映画を見る必要がある。上映後『映画を受動的に観るのではなく、自分がそこにすっと入って行く、そこの世界にいるような感覚になった』などの声もあり、これも監督の狙いと言えるだろう。


今回の上映会では、初めて観察映画を観るという方がほとんどであったため、上映前に運営側から観察映画の方法論のみ簡単に紹介。初体感する観察映画への期待を膨らませながら、静かにゆっくりと上映会は始まった。


映像はモノクロ。元々は色彩豊かなカラー作品、タイトルも『港町暮色』になる予定だったそうだが、監督の奥さんであり、本作のプロデューサーでもある柏木規与子さんの何気ない一言によりモノクロで試写してみたところ、監督は夢中で最後まで見てしまったとのこと。また、映像世界から時代性が消える、登場人物のお年寄り達が格好良く映るなど、新たな発見もあったようだ。


丹念に映し出されていく牛窓の風景。地域社会に生きる人々の交流。一つ一つの場面が、我々に何を語るともなく、時間とともに流れていく。やがて、ふと起きる重要な出来事。そして最後には、モノクロの夢の中から覚め、牛窓という場所が確かに在ることを感じられた……。


休憩をはさんで、午後からは牛窓の魚を使ったお弁当を食べながら感想共有を行った。


『映画の舞台になった牛窓のお魚でランチしながら、同じテーブルのさっきまで知らなかった方と感想を共有し合うということ自体が、新鮮な経験でとっても面白い』


少しでも舞台となった牛窓を感じてもらうため、運営スタッフが現地へ飛び、映画に登場した高祖鮮魚店の新鮮なゲタ(舌平目)を発注。お店の方にも、快く企画にご協力いただいた。

また、今回の取り組みに共感してくれたTREX TORANOMON CAFEに、ゲタをメニューとした特別なお弁当を作っていただいた。


そしていよいよ、想田監督のオンライントーク開始!

観察映画はテーマを持たないということで、まず最初に誰もが共通して疑問として浮かぶ「なぜ牛窓なのか」「なぜ港町なのか」という部分について紐解いていただいた。

牛窓は監督の奥さんであり、映画にも登場する柏木規与子さんのお母さんの故郷。監督もこの土地で夏休みを過ごし、地元の方と仲良くなっていく中で、漁師の生活に興味が湧いたそうである。


『皆さん高齢で70代、80代ばかり、跡継ぎもいない。漁師が当たり前の町だと思っていたが、10年後にはいなくなってしまうと思った。いなくなってしまうその前に撮りたい、またどんな生活をしているのかに興味を持った』

作中の漁師わいちゃんとの出会いの場面


たまたま出会った80代の漁師(わいちゃん)から、すごく大きな魚を獲ったから撮れ撮れと言われ、成り行き的に撮影を行ったことがこの映画のきっかけだという。この始まりこそが、計画性・効率性とは無縁の観察映画の在り方を象徴しているのかもしれない。


『牛窓のなかで完結している、太古の昔から千年、二千年と続いてきた経済の流れが、牛窓をぐるっと一回りするうちに撮れてしまった。同時に千年続いてきた経済の最後みたいなものに気づかされてしまった』


翌朝、漁に出発、帰港するとそのまま市場へ、そして競りが始まる。そのまま撮り続けていると、見慣れた高祖鮮魚店のおかみさんが市場で魚を買っていることに気づく。そこで、今度は高祖鮮魚店の周囲を撮っていく。すると今度はどこからか猫の親子が登場、数珠つなぎの要領で、観察を続けていく……。


監督の言葉にある通り、偶発的に浮き彫りとなった、消え行く地域経済の仕組みやコミュニティーの存在。漁師を起点としたこの小さな地域の経済循環から、現代社会、とりわけ都会で生活していると意識しにくい、人間の在り方の根本を感じ取った方もいたことだろう。この価値観を顧みることなく、現代の目まぐるしい変化に身を任せているだけでは、やがて本当に大切なものを失ってしまうのかもしれない。


『撮影でも、編集でも、題材・テーマは決めない』

編集作業においては、まず撮れたものを全部観て、更に書き起こすという、いわゆるロギング作業を行い、気になった場面、印象的な場面を繋いでいくそうだ。それを繰り返すことで、70、80とシーンが出来上がっていく。さらに、ランダムに繋げたシーンの順序を変えたり、切り貼りしたりして、出来上がったものを鑑賞、また編集、そして鑑賞というプロセスを繰り返す。


編集中に、今回の映画はこういう映画なんだ、と気付いてくるそうで、その発見がある度に、完成までの道筋がついていく。しかし、その解釈はあくまで自分にとっての解釈であって、観る人が100人いたら、100通りの解釈が生まれるだろう、と監督は言う。


『出会いがすごく大事。出会いには必然があり、必然が重要』

監督から、普段から興味があって撮りたいと思っている事柄が20個ほどあると伺った。本作『港町』の際は、『漁師』というワードが当てはまったとのこと。

ただリストになくても、突然そういったものに出会うことで、撮影を始めることもある。やはり、出会いが重要。


参加者からの感想共有、質問コーナー

『島で生活していたということは、撮影対象の方とお互いに交流を深め合いながら撮影を続ける形になると思うのだが、距離感があまりに近くなると、ありのままを観察することも難しくなるのでは?』


監督曰く『ドキュメンタリーは、作り手と被写体の関係をも映し出すもの。その距離感は隠せない。カメラには、そのままの関係が映っていい。コントロールする必要はない』とのこと。

カメラを意識する人は意識しているままでよく、意識しない人は意識しないままでよいというのが、想田監督流。牛窓の人々と監督のやりとりも、映画の中にそのまま映し出されており、『出会いそのものを大切に』という監督のあたたかさがにじみ出ているように感じられた。

『この映画を観て、実は途方にくれている。大きな社会になってしまったがために、元々港町にあったような生活をすっかり失ってしまった。お日様とか、風とか、波の強さとかを直に感じながら魚を獲った人が競りをし、それを見知っている人が卸して、なるべく活きたまま消費者へ届けるという、理想的な流れを我々は手放してしまった。

大きな組織、大きなマスメディアに頼らない、自分が発信する、自分で観る、自分で聞くという小さなサイクルの中で生きていこうと思っていたので、この映画は素晴らしく面白かった。

最後にモノクロの映像が静かにカラーになっていく場面は、すごく心が安らいだ。想田監督はやさしい眼差しで、我々が生きてきた現実の世界を取り戻してくれたような気がしていて、そのやさしさはすごく届きました。』(女性)


現代社会の大きな流れの中では、我々を含め多くの人々がどこか追従するように生きてきたように思う。資本と人の集まる都市へ、経済も、仕事も、流通も集中し、複雑で大きな仕組みの中に生きている私たちの目に入るのは、身近で手の届くほんの一部分だけ。自分の身の回りにさえ気を配っていれば、あとは知らない誰かがやってくれる。衣食住すべてが外注の時代だ。

その上それが便利とあれば、遠い世界のことにまで気を配るのは、何だか億劫に思えることもある。しかし、その便利な生活の裏にこそ、現代社会の問題点が潜んでいる。知らぬ間に自然破壊や労働者搾取に加担していないだろうか。何かを犠牲にして成り立つ社会が、本当に豊かだといえるのだろうか……。


牛窓の生活は違う。小さいけれど、一人一人が共同体の中で何を為し、それが周囲にどう影響しているのか、はっきりと分かる。自分が世界の中で果たしている役割、その実感が確かにある。今手にしているもののルーツがすぐそこに見える。一部の犠牲や個性の埋没で成り立つ社会はそこにはない。誰もが、猫までもが、共同体の一員として、その尊さを輝かせている。


自然とともに生きる、この価値観は現状徐々に失われていく一方のように思えてしまうが、時代性の抜け落ちたモノクロの景色が優しく色づいたとき、牛窓という自然の確かな存在感が、我々の中に静かに立ち現れてくる。

現代社会が置き去りにしてきた大切なものが、まだ日本の片隅に残っているのだという事実に、胸があたたかくなる。

『BGMを使っていないのに、自然の音が音楽に聞こえました』(女性)

監督曰く『音を聞くと経験が呼び覚まされる。目に入るものは意識に入るが、耳に入るものは意識に訴えかける。だから体験を伝える上でとても重要。映像それ以上に重要かもしれない』


音はできるだけ被写体の近くで録るように心掛け、映像とどうやって混ぜ合わせていくのか、リズムを取っていくのかを考えながら編集しているそうだ。BGM、効果音、ナレーションを使わないという想田監督のポリシーがここでも垣間見えた。


『地域のつながりなんかがグループ内で言われていたが、私には田舎での孤独感が見えた』(男性)

『今そこにある営みを映像にして観察映画にする、映像に残すということは、地球上のどこにいてもできる生業であり、価値ある仕事のひとつだと感じました』(男性)

『あるがままを受け入れて、自然と共に生きる人々の諦念、あるいは寛容さに触れた気がしました』
(女性)

地域共同体で長く暮らしてきた人々の表情には、確かに孤独が見え隠れすることもある。

しかし、そこにはもはや都市生活者には感じることの出来なくなった、神妙な情感がある。私たちには、彼らの生活に潜んでいる影が何なのか、漠然と推し量ることしかできないが、そこに人の幸福に関わる本質的な何かが横たわっている気がしてならない。

想田監督が元々のタイトルに考えていた「暮色」という言葉に含まれるニュアンスが、改めて思い返される……。

最後に想田監督から一言!

『観察が大事!』

最後に「ずばり監督にとって観察映画とは?」という質問に対して、監督は『現代は「よく観る」「よく聴く」ことが難しい時代になってきている。ものすごいスピードで物事が動き、環境は変化している。そんな時こそ、観察が必要だ。観察は映画に限った話ではない。世の中で生きていくことへの姿勢として、大事にしていきたい』と答えられた。

我々も、社会が拡大、成長、加速という一つの方向に突き進んで行く中で、見落としてしまった本当に大切なものをつぶさに観察し、拾い上げ、これからの世の中に残していきたいと思う。そこにこそ、これからの生き方、暮らし方が見えてくるだろう。

現代は社会問題が山積み(人口減、一次産業の衰退、労働環境・働き方の変化、深刻な人手不足、自然環境破壊、などなど……)だが、予断を許さない状況の中で、いかに「観察」の視点を持ち続けられるか……。思いついた方法論を実行する前に、もっとよく観察する必要もあるかもしれない。それが果たして、本当の幸福に繋がるのだろうか……と。

今後について

想田監督は現在、過去作『精神』の続編となるような映画を製作中とのこと。新たな観察が、我々にどんなインスピレーションを与えてくれるのか、とても楽しみだ。

決まった見方も、結論もない、それ故にワクワクする。食べて、聴いて、そして観察する、五感で深く味わう上映会を、また想田監督と一緒にやりたいものである。


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