三余の読書④ 江崎誠致『ルソンの谷間-最悪の戦場 一兵士の報告』光文社NF文庫 1993年(1957年公刊)
無常なる人間
人間は状況に応じていかようにも変わる。そして極限に置かれた時にこそ、その人の「人となり」が露呈する。そんなことを強く感じさせる本作品は終戦末期にフィリピンに派遣された兵士らの逃避行録である。ルソンの山中をさまよった兵士による実録のようでもあり、フィクションのようでもある。しかし非日常の苛烈な状況に追い込まれた人間心理と行動の、克明で具体的な描写は、実際にその場を身を以て体験した者でなければなし得るものではあるまい。
1945年4月以降、アメリカ・フィリピン連合軍に追い詰められた日本軍部隊があてどもなく山中を彷徨するさまを描いたもので、特にストーリー性があるわけではない。しかし逃避行のさなか、現地「ゲリラ」から襲撃を受ける、住民の逃げた村で食料を調達する、部隊兵士が脱落をしていく、などの多数のドラマが展開する。そしてどれもが生死に係わるエピソードである。敗戦の最終段階では、敵と直接戦うことよりも、食糧確保、体力維持、怪我病気の克服といった生存条件の基本を失っていくことで次々と多くの生命が奪われていく。銃弾に倒れる者だけでなく、マラリアで取り残され死を待つ者、過度の不安から自死する者が続出する。人が死んでいくことが日常化し当たり前となれば、その一つ一つに感情の揺れることさえ忘れてしまう。自分もいずれボロ切れのように白骨化した仲間のようになるのだろうとどこかであきらめつつ、しかし一方で少しでも長く生き延びようともがく。
戦場の人間模様
そもそも戦争は理不尽である。大義を失い、さらに敗戦に追い込まれる状況下では、なかば洗脳され冷静さを失っていた一人一人に理性が戻りかけ、何が正しいのか、何をすべきかを自分で考え始め迷い、さらに混乱をする。こうした時にこそその人の人となりが出る。意味を失った軍隊位階秩序に固執する者、同僚兵士を殺してでも生き残ろうとする者、命がけの協力をして仲間を守ろうとする者、自分が犠牲となっても同僚の生存を優先する者など、さまざまな人間模様が展開する。
あるエピソードが忘れられない。足に傷を負い歩行もままならず落伍した「兵士」(おそらく著者自身)に、それまで口もきいたことのない「兵長」がかばいながら、歩を合わせて帯同する。傷の影響で時折失神状態に陥るので休み休みの歩行しかできない。足取りのしっかりしている「兵長」自身も敵弾を胸に受け血を流す身。被弾した際にわずかな携行薬で手当てをしてくれたことへの恩義と、同じ手負いとしての友情から、歩行ままならぬ「兵士」の落伍行の守護役を買って出たのだ。数時間ともに歩いた後、川辺で休息した際、「兵長」は水を飲もうと川に顔をつけたまま動かぬ人となる。自身の傷が致命傷と悟りながら、自分を手当てしてくれた落伍兵への報恩を最後の「使命」として果てた。同行の数時間、「兵長」は一言も口をきかなかった。
実際に戦場を経験した者でないと描けない状況をリアルにえぐり出す。戦場において非道な行いに走る者が多い中で、高邁な人格を示す者がいたことを描いたのは、著者の人間賛歌であり、人間に寄せた期待だといえるだろう。
直木賞受賞作
この作品は1957年に直木賞を受賞している。当時の選考委員の大佛次郎は次のように述べる。「せいさんなことを扱っていて素直で平静である。ごまかしや、弁解がない」「センチメントなんて失われてしまったところに、非情の心理が生れ出て、そのまゝ読者を感動させる」。吉川英治は「敗戦行という人間を失った人間群を描きながら、どの人間にも、あいまいさがない」「何しろ、筆者は非凡である。作中随所の、ほんとなら、かすんでしまっている箇所なども、あざやかな描破を逸していない」。
戦場での人間行動観察と心理描写では、大岡昇平の傑作『俘虜記』にも比肩するだろう。かつて相当の高い評価を得ているにも拘わらず、現今あまり読まれておらず絶版となっているのはまこと残念だ。
『岩 肌』
同じ文庫に収められたもう一つの作品『岩肌』は、更に研ぎ澄まされた感覚で、上記『ルソンの谷間』よりも深く不条理をえぐる。題材は「遺体」。敵弾に当たって死んだ見習下士官の遺体が、山の尾根から落ちて岩肌に這う蛸の足のような形状の蔓に絡まり、それが日に日に腐食し、虫に食われ、白骨化し、そして土と化していく様を、まるで観察日誌のように詳細に綴る。ほぼ同じ場所で異なる時に銃弾に倒れ、敵に身ぐるみを剥がれて谷間に捨てられた一等兵の遺体は、同じ岩肌の大岩の割れ目に頭を突っ込む形でとどまり、それがまた日に日に腐乱し白骨化していく。
哀れな腐食する遺体となった見習下士官も一等兵も、共通して立派な軍人として「聖戦」を戦い抜こうとする高い志を抱く存在だった。それゆえに不条理な軍隊では疎まれ、残酷な戦場で望まぬ理不尽な軍務を強いられ一線を越えていく。無実の住民を斬殺し、空中に放り投げられた赤子を銃剣で受けて突き殺す。かつて正義感溢れながらも、一線を超えさせられた両者は、その報いを受けるかの如く敵弾に斃れる。そして彼ら遺体は誰からも見向きされることなく腐り果て、白骨化し、やがて骨も砕け、片や大地の土と化し、片や大水でどこか知らぬ地に流されていく。そして彼らの遺体は存在したことすら誰にも記憶されることなく忘れ去られ、大自然の一部にかえってゆく。彼らが戦い、倒れたその場所には、太古の昔から変わらぬパルパルの木が青々と茂り、虫たちがうごめいて力強く生命の営みを重ね、また川の水が悠然と流れている。
戦争、殺人、不条理、愚行を繰り返す人間と、それとは対照的に季節や時の巡りに従って生命の営みを連綿と、しかも淡々と続ける草木や虫らとの対比が残酷なまでに描かれる。著者は反戦を訴えているわけではない。実際に敗残兵として山中をさまよう経験をし、戦後10年たっても了解のできなかったむごたらしいまでの現実を思いおこしつつ、ひとつひとつを描写し、自身の心の整理をしたかったのではなかろうか。読み手は実際の戦場の理不尽と、人間の愚かさを突きつけられ、重苦しささえ感じる。
世界ではウクライナで、ガザで、スーダンで、現在なお戦争、戦闘が続く。日本でも法改定、予算増額などを通じて戦争のできる国づくりが着々と進められている。著者が存命だったらなんというであろうか。また戦後80年がたち、歴史としての戦争すら学ぶことの少ない若い世代がこの作品をどのように読むだろうか。
もう少し多くの人に読まれてもよい作品だろう。(2024年11月)