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世田谷区立郷土資料館「野毛大塚古墳展」に行った話~前編~
待ちに待った再開。ボロ市通りと代官屋敷
長らく休館中だった世田谷区立郷土資料館が再開!そして、野毛大塚古墳の出土品の保存処理完了記念の「重要文化財保存処理完了記念 野毛大塚古墳展」開催!「野毛大塚古墳にやたら詳しい素人」を目指している私としては、これは行くしかないでしょ。というわけでかわいい世田谷線が走る上町へ。
郷土資料館は、毎年12月と1月にボロ市が行われるボロ市通り沿いにある、代官屋敷(大場代官屋敷)の敷地内にあります。ボロ市が開催される時は多くの人でごったがえしますが、普段はのんびり。
ちなみに、資料館は前川國男の建築なのですね。知らなかった…。
まずは常設を眺めつつ
今回のリニューアルはどちらかというと設備系統が中心で、常設は多少の変化はあるものの、大きく変わったわけではなさそうです。しかし、随所に学芸員さんの工夫が見えます。
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常設もじっくり紹介したいのですが、それはいずれまた記事にしたいと思います。今回は野毛大塚古墳展!
大量の武器と武具、時代が求めたバージョンアップ
というわけで本題。
(*今回の展覧会は前期と後期で展示物が変わるため、話は両方にまたがります。また、講演会の内容も大いに参考にさせてもらっています。MさんTさんに感謝)
野毛大塚古墳が造られたのは5世紀初め、つまり古墳時代中期初頭。埋葬施設が4つ見つかっていて、50年ぐらいの間にそれぞれ作られたと考えられています。ここでちょっとおさらい。
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メインの主体部である第1主体部からは、関東では最古級の武器などが出土している
第3主体部(2番目に作られた埋葬施設)は、比較的第1主体部と時期が近く10年ぐらいのタイムラグ。第1主体部を上回る大量の武器が出土
第2主体部(3番目に作られた埋葬施設)は、唯一の石棺。石製模造品が有名だが、明治30年に調査されたため不明な点も多い(?)
第4主体部からは少量の武器
ここまでは知っていましたが、なかなか武器に興味が行かず…。だったのですが、今回改めてずらっと並ぶ鉄剣や鉄鏃を見ると、やっぱりすごいんだなぁ、などとアホみたいな感想を浮かべるのでした。と同時に、それぞれに型式変化が編まれていることに気づくとドン引き…じゃなくて感心します。
まずは第1主体部の甲冑。関東では最古式のタイプだそうです。
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![](https://assets.st-note.com/img/1697845907174-fYoAQAWP4y.jpg?width=1200)
古いタイプの特徴の一つとして分かりやすいのは、革綴というところですね。ちなみに1世代後だと考えられている御岳山古墳から出土したものは鋲綴です。継ぐ板の形も長方形から三角形に変化します。つまり短期間にも改良がくわえられ、技術が刷新されている、ということなんですね。
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これだけ頻繁に刷新されるということはつまり、武具が実用されることがリアルに想定された時代の戦略物資だったということです。朝鮮半島では高句麗が南下し、情勢がきな臭くなっている時代(ちょっとこの辺のことがあまり詳しくないので要勉強ですが)。戦争がリアルに迫ってきている国際情勢が武器武具の刷新を要請したということなのでしょう。
ただ、肩甲の組み方が逆(腕が上がらない!)なところを見ると、少なくとも第一主体部から出てきた短甲を組んだ人は実用が分かっていない。つまり個人レベルでは実用がリアルに想定されていない感もあって、この辺の温度差が関東っぽくておもしろいなと思いました。
鉄鏃につぐ鉄鏃(あまちゃん風に)
甲冑だけでなく、鉄剣や鉄鏃もこの時代細かく刷新されており、第一主体部から出てきたものと比較すると、第三主体部から出てきたものは新しいタイプだそう。恐らくこの間10年程度です。
ちなみに野毛大塚古墳の鉄鏃ですが、第一主体部からは3型式40点、第三主体部からは13型式203点‼という凄まじい数が見つかっています。13型式にもわたるタイプが1つの埋葬施設から見つかることは非常に珍しいそうで、畿内のみならずいろいろな地域からもらい受けたことが推測されます。
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これらの鉄鏃は当然、鉄鏃として副葬されたわけではなく、弓矢の矢として埋められたわけですが、直に入れられたわけではなく盛矢具(矢を入れる道具)、つまり靫や胡禄に収められた状態で埋められた痕跡があるそうです。それで、盛矢具は有機物なので腐って溶けてしまい、鉄剣や鉄鏃がまとまった状態になっているんですね。
後編に続きます
武器武具だけでも書ききれないうえ、若干お腹いっぱい感否めないとは思いますが(汗)、さらに続きます…