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「信仰」と「宗教」

最近、思うところがあって改めてこの「信仰」と「宗教」の違いを考えていた。前の記事にも書いた記憶があるが、この2つは似て非なるものだ。

当家と同じく日蓮宗の信徒である美輪明宏さんのお話で「信仰」と「宗教」は分けて考える必要がある、ごっちゃにするからわからなくなると仰っているものがあった。「宗教」とは神仏と人とを繋ぐ代理店のようなもので、それに頼らずとも神仏や先祖との繋がりを感じられる人はそれが「信仰」であり、その人に「宗教」は必要ないというお話。

聞いた時(確かに!)と妙に腑に落ちて膝を打った。
宗教を絡ませるとある意味正道としての学習コースに乗れるし、必要な人は必要として良いと思うが、反面で宗教を大前提にして深みにはまると宗祖はこのように書き残されているとか、依って立つお経の内容はこうだというような宗祖信仰論争、経典解釈論争に陥り、それを説いて実践されてきた神仏の存在が影に隠れてしまう。宗祖はあくまで本尊に込められた仏の魂と、仏や行者守護のため、あるいは実践の模範となるために集った諸天善神との仲立ちで、経典は教えを文書にして書き記した二次的なもの。生身の仏から聞いた説法そのものには劣る。実際、IT全盛の時代に生きる我々は文字ベースのやり取りによる解釈の齟齬やトラブルを経験したことが多いだろう。繰り返すが宗祖は仏そのものではなく仏に至る道を開拓した先達・仲立ち、経典は信仰のために読むツールである。

僕は代々が日蓮宗の家に生まれたが、日蓮さんのことは正直なところあまり好きではない。だが、「諸天善神」と呼ばれるインドの天部や日本の神々を信仰できる点は気に入っている。僕の場合は神社で(神主さんの仲立ち無しに)日本の神様と向き合い、祈るような信仰のあり方が最もしっくり来る。故にあえて教学には手を出していないし、『大黒天神御書』や『大黒天神相伝肝文』が偽書・偽経であろうとも気にせず読む。一時期教学を学ぶよう勧められて何冊か本を読んだが、どうも自分が求めているのはこんなことではないという違和感が拭えず、今は本棚にしまっている。

(一在家で教えを説くこともないが)カルト化しないよう日蓮宗という「宗教」の枠組みには属するが、「信仰」はあくまで諸天善神、そして当家大先祖に対して向ける。そう思ったら張り詰めていた気持ちが楽になった。当家大先祖は桓武平氏三浦流の方だが、そうなると家祖は桓武天皇に行き着く。桓武天皇はなぜか昔から好きで、子供の頃もお名前を聞くと誇らしい気持ちになっていたが、その理由はわからなかった。当家が桓武平氏流らしいとわかってようやく謎の一端が解けた。

気持ちに整理がついたこともあり、大先祖様(の依代としての帝釈天王)の隣に写真立てを設置し、お守り的にバッグに忍ばせていた桓武天皇の肖像画プリントを飾った。先日、うちのお上人から「(マハーカーラの背中に入れる経文を)自分で書いていいよ」と言われたこともあり、それだけの荒行人生を歩んできたんだと勝手に自負して桓武帝の肖像画コピーの裏に諡(おくりな)「南無桓武大帝 日本根子皇統弥照天皇(やまとねこあまつひつぎいやてりのてんのう)」と書き、両サイドに法華経の神力品偈から取った四節、「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」を書き入れた。神力品は今まであまり好きでは無かったが、大先祖様をお迎えしてからよく読むようになり、そこに使われている表現を拝借した。

自分の「信仰」としてはこの形が目下一番ストレートで気に入っている。


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