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西洋近代と日本語人 第3期 その7


1.はじめに

331. 年末年始ですこし間が空きました。昨年来、私がこのブログで考えているのは、観念説の成り立ちと個人主義の起源、すなわち「なぜ、17世紀の西ヨーロッパの人々は、個人の心の中の観念から出発して真と善と美を追求するしかない、と考えるようになったのか」(3の6:290、3の3:100)という問いです。

332. 個人主義(individualism)とは、私の考えでは、「〈人は、既成の社会的合意の外に成り立つ真善美を目指すことを通じて、自分自身となり、ひいては一個独立の個人となる〉」(3の6:302)という生き方を推奨する立場です。

333. 地縁血縁や社会規範の束縛を断ち切って、人が自発的に真理と善と美を追求する。そうすることによって、その人は、普遍的な真善美の前で、民族、身分、性別などの個別的な属性を離れて独立の一個人になり、本来の自分となる。こういう考え方は原始教会以来のキリスト教の教えと基本的に同じものです。(3の6:322-324)

334. キリスト教が古代末期から中世にかけて西ヨーロッパ全土に広がって行く過程で、この教えは教団内部だけでなく、社会全体を構成する原理となります。個人主義は、本来の自分にたちかえった個人によって社会が組み立てられるのを積極的に肯定し、支持する、という社会思想ないしイデオロギーとして存在しています。(3の6:296)

335. 他方、17世紀の観念説の主張は、次の二つの主張が合わさってできています。(A)人々は同じ一つの対象について異なる〈視点〉をとっており、それぞれ異なる観念を心に抱いている。(B)各人の心の中の観念は外界から切り離すことができ、それ自体としては偽にならず、真でありうる。(3の6:287)

336. 観念説の主張のうちで特徴的なのは、(A)ではなく(B)の部分です。(A)の、人はそれぞれ違う意識内容をもっているという事実は、人間社会の基本的なあり方として、文化や社会の違いにかかわらず多くの幼児が5歳頃までに獲得する社会認識です。他方、(B)の、人の意識内容は外界から切り離しても真でありうるという主張は、さまざまな束縛を断ち切って真理と善と美を追求するという個人主義の生き方を、認識論的に表現していると言えます。観念説と個人主義は、個人主義が観念説をもたらし、観念説が個人主義を支えるという関係にある。こういう見通しの下で、これから個人主義の起源を、キリスト教を一要素として含むような広い展望の下で、考えていこうと思います。

2.個人主義の起源 ―― マルセル・モース

2.1 モースの1938年の論文

337. これからしばらく、人類学者のマルセル・モース(Marcel Mauss 1872-1950)が1938年に発表した人格という概念の形成史に関する論文、「人間精神の一カテゴリー――人格パーソンの概念および自我の概念」を検討していきます。あわせて、このモースの論文(以下、必要に応じて「モース(1938)」と略記します)を批判的に検討したマイクル・カリザス(Michael Currithers 1945- )の1985年の論文「自己の社会史――もう一つの選択肢として」(以下、「カリザス(1985)」)も取り上げます。モースとカリザスの論文を対比することで、下に述べるように、個人主義の起源の考察の進め方についてひとつの示唆が得られます。

338. なお今回は、この2つの論文を取り上げるための概念的な整理が中心です。論文の内容については、モース(1938)に関してほんの少し述べるにとどめます。

339. まず、書誌情報から。モース(1938)およびカリザス(1985)は、どちらもマイクル・カリザス、スティーヴン・コリンズ、スティーヴン・ルークス編『人というカテゴリー』厚東洋輔、中島道男、中村牧子訳、紀伊國屋書店、1995年(Michael Currithers, Steven Collins, and Steven Lukes (eds.) The category of the person: Anthropology, philosophy, history. Cambridge University Press, 1985)に収録されています。

340. この論文集は、モースの人格パーソン論をめぐって1980年にオックスフォードで開催された連続セミナーの出席者の論文を編纂したものです。セミナーの基調論文となったモースの論文そのものは、英国の王立人類学協会で1938年に行なわれたハクスレー記念講義にもとづくフランス語の論文です。初出は1938年の The Journal of the Royal Anthropological Institute of Great Britain and Ireland 誌ですが、後に Marcel Mauss, Sociologie et anthropologie, Press Universitaires de France, 1950 に収録されました。

341. モース(1938)は、北米先住民の民族誌から説き起こし、インドや中国の例にも簡単に言及しつつ、古代ギリシア哲学から原始キリスト教を経て西洋近代にいたる人格(the person)概念の形成史を語ったものです。人類学的な視野の広さが魅力ですが、さほど長くもない論文のなかに多くの地域と時代と文化の観察報告が圧縮して詰め込まれており、読解はなかなか難しいものがあります。

342. カリザス(1985)は、モースが人格とならべて自我(the self)を論文の副題に掲げながら*、自我の概念の形成史をほとんど語らなかったことを批判します。人格の概念だけでなく、自我の概念にも歴史的な形成過程がある。それは人格パーソン概念の形成史とは異なる意義をもつ、と指摘しています。カリザスの主張にはもっともなところがありますが、私としては、自我の〝概念〟ではなく、自我の〝体験〟が大事なのではないか、と言いたい。この点は、2つの論文を紹介した後に取り上げる予定です。

注*: モース(1938)の邦訳表題が「人間精神の一カテゴリー――人格パーソンの概念および自我の概念」となっているため、今回は “self” の訳語として「自我」を頻繁に使います。「自我」は、私の印象では、臨床心理学や精神分析学でよく用いられる訳語であり、情緒的・心理的な自己主張(我の強さ)を連想させます。それゆえ、哲学では、そういう含みのない中立的な「自己」がよく使われる。私もふだんは「自己」を使います。が、今回に限り、モースの邦訳に合わせるために「自我」を多用することになりました。ちょっと違和感がありますが、やむをえない。気になる人は「自我」を「自己」と読み替えてください。

343. 現段階で言えるのは、この2つの論文の対比から、個人主義の起源を考えるために有益な示唆が得られるということです。それは、人格パーソンと自我という2つの〝概念〟に加えて、個としての人間存在を考える必要がある、ということです。この、個としての人間存在を、〈生きている身体〉と呼びたい。〈生きている身体〉は、哲学用語として確立されたものではありません。私が思いついてときどき使っている表現です。人格パーソンであったり、自我であったりする当の人間の個体を指します。そして、この〈生きている身体〉が、上ですこし触れた自我の〝体験〟にかかわってくる。

344. モース(1938)とカリザス(1985)の内容を紹介した後でないと、〈生きている身体〉の導入にどういう意義があるのか、意味不明だと思います。これからおこなう言葉遣いの整理でも〈生きている身体〉について述べますが(357参照)、次回以降、本格的に論文の内容を立ち入って検討するときに、人格パーソンと自我と〈生きている身体〉が、それぞれ互いにどう区別されるべきなのかはっきりさせていくつもりです。

2.2 個人と人格パーソンと自我

345. モースの論文の内容に立ち入る前に、言葉遣いを整理しておく必要があります。個人主義の起源を問うているのに、なぜ人格パーソンや自我を扱うのか。問うべきは個人(individual)であって、人格(person)や自我(self)ではないだろう。こんな異論がありうる。これにまず答えておきます。

346. 「個人」「人格パーソン」「自我」という言葉は、三つともみな個としての人間を指すという点で共通しています。しかし、個としての人間を、それぞれ少しずつ異なる角度からとらえて表現している。この点で、相互に違いがあります。

347. まず、「個人(individual)」は、個としての人間を、全体社会の単位としてとらえて表現する言葉です。ある全体を分割していくと、もはや分割できない(indivisible)単位に到達する。こう考えることが可能です。物質の場合、分割できない単位は「原子(atom)」と呼ばれます。社会の場合、それが「個人(individual)」ということになる。

348. 全体を分割しても不可分の単位には到達せず、どこまでも分割が続くと考えることも可能です。不可分の単位があると考えるか、無限分割可能と考えるか。人間社会について一般にどちらが正しいのかは分かりません。個人主義は、原子論と似た発想に立っていて、一人の人間を不可分者とみなす立場です。

349. 一人の人間を不可分者(an individual)とみなす場合、それがどういう意味で分割できないのかが重要になる。というのも、人間の身体は明らかに分割可能だからです。爪を切ったり、髪を切ったりすれば、一つの身体が、切除された爪や髪と残りの身体の二つに分割されたことになる。だから、人間が分割できないというのは、身体の水準の話ではありません。一人の人間の〝何が〟分割できないのか。生命なのか、意志なのか、それとも何かほかのものなのか。この問いに答えることは今はまだ無理なので、とりあえず心に留めておくだけにします。

350. 次に「人格(person)」とは、個としての人間を、ある社会の一人前の構成員としてとらえて表現する言葉です。“person”は、基本的には一人の人間を表しており、日本語では「人」「人物」「人間」「人格」など、適宜訳し分けられます。しかし“person〔ラテン語 persona〕”は、ローマ法の時代から現代まで法律用語として使われてきた歴史があり、法的主体として十全な資格をそなえた存在をいいます。この文脈では、「人格」と訳すのがよさそうです。このように、ある社会で一人前と見なされる人間が、人格パーソンなのです。人格パーソンの場合は、どういう意味で一人前なのかが重要になります。法的意味以外にどのような条件が考えられるのか。この問いも今は心に留めておくのみとします。

351. なお、日本語の「人格」は、個々の具体的な人間よりも「人であること」という抽象的な人間性を表す印象があり、あわせて、「人格者」といった用例でもわかるように、「衆にすぐれて立派な」という含みもあると感じられます。これに対し、“person”は特に抽象的でもすぐれてもいない普通の個別的な人間を指すらしい。日本語の「人格」にまつわる含みを避けるために、以下では必要に応じて「人格パーソン」とルビを振ることにします。

352. 最後に、「自我(self)」は、個としての人間を、自己意識を通じてとらえて表現する言葉です。自己意識を通じた認識の内容は、例えば「私は怠けものだ」とか「私はお腹がいっぱいだ」といった文で表すことができます。

353. 「自我(self)」をとらえるやり方には二通りあります。ひとつは、上の「私は怠けものだ」といった文の全体、一般的にいえば「私は○○だ」という〝述語をそなえた自己認識の全体〟が、自我(self)であるとするもの。もうひとつは、「私は怠けものだ」という文の「私は」の部分だけに着目して、「私は」という〝主語にかかわる自己把握〟こそが自我(self)であるとするもの。

354. 自我(self)の二通りのとらえ方は、一方が正しくてもう一方は誤っているというものではありません。二つは違う種類の自己認識に通じている。述語をそなえた自己認識は、記述的な内容をともなう自己をもたらします。例えば、「私は考えるものである」は、『省察』において、デカルトが第二省察の半ばあたりで到達する自己認識です。これは「考えるもの」という自我(self)の本質ないし理念を記述しています。

355. これに対し、「私は」という主語のみにかかわる自己把握は、何ものとも知れない何かがここにあるという、茫漠とした、しかし揺るぎない自覚を意味している。デカルトの場合も、「私は考えるものである」という自己の本質の認識に先だって、まず「私はある、私は存在する」という自覚だけが、懐疑の帰結として提示されます。「私はある、私は存在する」は、第二省察の始め近くで、懐疑をくぐり抜けたあとの端的な自己把握として述べられています。自我の本質や理念はまだ明らかになっておらず、何ものとも知れないけれど、ただ、私はある、ということだけが主張されている。

356. 「私は」という主語のみにかかわる自己把握は、「何かがある」という認識です。それが何であるかは、まだ言い表すことができないから――というのも、言い表せるのなら「私は○○だ」と言っているはずだから――ある意味で、とらえどころがない。けれど、そこに何かがあるのは確実なのです。これは特定の記述的な内容をともなわない存在の感触にすぎない。しかし、そういう感触がなければ、「私は」とか「ぼくは」といった一人称の発話はそもそも出現しないでしょう。
 (AIの場合どうなのか、というのは新しい難問ですが、残念ながら取り組む準備がまだできていません。思うに、質問されてもいないのに、自分の考えを一人称で勝手にしゃべりはじめるAIというものは、まだ出現していないんじゃないか。)

357. 主語にかかわるこの自己把握、あるいは存在の感触は、上で〈生きている身体〉と呼んだものを探り当てる手がかりになります。「私は○○だ」という明確な自己認識以前の、まだ何ものであるかは記述できない個としての人間の存在が、〈生きている身体〉という言葉で私が言おうとしているものです。

358. 以上の検討から、個人主義の起源を扱うのなら、問うべきは個人であって、人格や自我ではない、という異論に対して、以下のように答えることができます。

 「個人」も「人格パーソン」も「自我」も、個としての人間という同一の存在者を指している。違うのは、同一の存在者に接近する仕方である。モースはたしかに人格パーソンを主題として論じたが、これから見ていくように、不可分性(単一性)や自己意識も同時に指摘している。したがって、個人主義の起源を考えるために、モースの人格パーソン論を参照することには十分な意義がある。

2.3 モース(1938)の主張

359. モースは、「人間精神の一カテゴリー――人格パーソンの概念および自我の概念」の冒頭で、われわれ西欧人は人格パーソンの概念が、人間の思考枠組み(即ちカテゴリー)の一つとして生得的なものだと信じている。けれども、それは決して全人類共通のものではないと明言します。むしろ人格パーソンは「幾多の変遷をたどりながら徐々に発生し成長してきた」*のであり、「今日でさえ、依然として流動的で繊細かつもろ〔い〕」ものにすぎないというのです。

注: カリザス他編上掲書(337注参照)のp.15。以下モースのこの論文を参照したり引用したりするときは、同書のページ数だけを示します。なお、訳文は必要に応じて断りなしに改める場合があります。

360. モースの論文が発表された20世紀前半は、西洋の文化こそ普遍的かつ模範的なものだという素朴な考え方が、人類学者たちによってやっと疑われ始めた時期に当たります。モースは、西欧人の諸概念を普遍的と信じて疑わないような素朴すぎる見解を是正したいと考えている。

361. そのために、論文の前半では、かなり長くアメリカ先住民の儀式用の仮面に関する報告を引用し、解説しています。モースが関心を寄せているのは、仮面をつけた儀式の登場人物という形式で、社会を構成する諸人格が儀式的に表現されているということです。

「一方で、氏族は、一定数の人格から成っていると考えられている。ただし、実際には、それらは儀式の登場人物である。他方で、すべての登場人物の役目は、すでにある氏族の生活全体を、自分にかかわるかぎりで、演技的に表現することである。p.23」

362. ここは大事なところですが、翻訳によってモースの意図がわかりにくくなっています。「人格」は英語訳では“persons”、仏語原文では“personnes”です。これに対し、「登場人物」は、英語訳では“characters”になってしまうのですが、仏語原文では“personnages”です。“personnes(人格)”と“personnages(登場人物)”は、語形からわかるとおり、深く結びついている。

363. モースが言いたいのは、このアメリカ先住民(ズニ族)の社会においては、一人前の人物としての〝人格パーソン〟は、仮面をつけた〝儀式の登場人物ペルソナージュ〟として現れるということです。儀式の登場人物ペルソナージュたちは、それだけの数の人格パーソンが、氏族の社会生活を構成していることを、儀式において演技的に表現している。

364. 言いかえると、日常生活においては、個々人がそれぞれ特有の資格を備えた意義ある一人前の存在として印し付けられていないとしても、儀式の中では、個々人は特定の役割を果たす登場人物として出現して来る。もっとはっきり言えば、近代社会の人格パーソンの祖先は、氏族社会の儀式の登場人物なのだ、ということです。

「非常に多くの社会が、登場人物ペルソナージュの概念には到達している。個人が家族生活のなかで役割を果たすのと同様に、聖なる演劇〔儀式〕のなかで個人によって演じられる役割という概念には到達しているのである」(p.34)

365. モースの論考の全体は、先史社会において社会的役割の演技者として現れた人格パーソンが、近代社会において社会的役割に束縛されない自我となるまでの歴史的過程を語るものです。それは、19世紀的な進化論や発展段階説の名残りをとどめてはいるものの、近代的個人を人類学的展望の中でとらえる試みとして、今でも学ぶ価値があると思います。

366.  では、次回以降に、論文の内容を紹介し、検討していきます。次回は、2月8日土曜日に公開する予定です。では、また。

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