西洋近代と日本語人 第3期 その5
1.はじめに
175. 前回に引き続き、ここしばらくの主題は、観念説のなりたちと個人主義の起源について考えることです。観念説(the theory of ideas)は、人の意識内容すべてを観念(idea(s))として語る哲学的な装置です。17世紀にデカルトによって導入され、それ以後、西洋哲学の基本的な思考の枠組みとして受け継がれました。
176. 「観念」は、人が環境を認知し、過去を記憶し、欲求をもち、思考し、決意し、行為する、その意識的な過程をすべて言い表す言葉です。人がこのような意識過程をそなえていることは、あらゆる時代、あらゆる社会で自明に成り立つでしょう。したがって個人主義の起源の問題とは、「ではなぜ、西洋近代においてのみ、それぞれの人の心の中の観念から出発して真理や善や美に向かうという立場が選びとられたのか」(3の4:119)という問いとなります。
177. 前回は、発達心理学を参照して、17世紀以来の観念説の語り口が、20世紀末に明らかにされた4、5歳児における自他の〈視点〉の違いの理解とほぼ同じであることを確認しました(3の4:169-173)。観念説は、定型発達において獲得される「心の理論」と基本的に一致しており、ヒトの自然本性にもとづいていると言えます。
(なお、「心の理論」については、以下の2で説明します。また、山カッコつきの〈視点〉は“perspective”の訳語です。見る者の視点(山カッコなし)だけでなく、その視点から見たときのものの見え方も意味しています。3の4の151-152の説明を見てください。)
178. 今回は、この4、5歳で獲得される〈視点〉の違いにかかわる心の理論を掘り下げて考えます。前回と同様に、発達心理学的な事実と対照して哲学的主張としての観念説の特徴を浮かび上がらせたい。しかし、今回は、発達心理学との前回の突き合わせとは少し違って、観念説がヒトの自然本性から逸脱していることを確認する結果となります。観念説は、ヒトの自然本性にある程度一致していながら、大きくずれているところがある。そのずれが思想としての力につながっていると考えられます。
179. ではまず、「心の理論」という言葉の説明から。
2.心の理論
180. 「心の理論(theory of mind)」とは、ヒトが、日常生活で、心とはこういうものだと思って理解している暗黙の概念枠のことです。1978年に、デイヴィド・プレマックとガイ・ウッドラフが、「チンパンジーは心の理論をもっているか?」という論文*を発表しました。この論文が「心の理論」という言葉を大々的に使った最初の例です。著者は、チンパンジーはヒトと同じように他個体に心を帰属させる能力をもっている、と結論しました。つまり、チンパンジーは心の理論をもっているとされたわけです。
注*:Premack, D. and Woodruf, G. (1978) Does the chimpanzee have a theory of mind? The Behavioral and Brain Sciences, Vol.4, pp.515-526.
181. この論文以降、類人猿や乳幼児が心をどうとらえているのかに関する研究が、活発に行なわれるようになりました。近年では、チンパンジーは他個体の欲求や環境認知を洞察し、それに続く行動を予測できるが、ヒトと同じような心のとらえ方をしているわけではない、という見解が有力なようです。また、前回紹介したように、他人の心について、3歳児が4、5歳児とは異なるとらえ方をしている事実が判明し、幼児における心の理論の獲得について非常にたくさんの研究が積み重ねられて来ました。
182. 私たちが、心をどうとらえているかを述べてみると、こんな感じになるでしょう。これはいわば心の理論の素描です。
私たちは、物体に心はないと思っているけれど、人間には心があると思っている。また、他人の心は言葉や表情や身振りを介さないとわからないけれど、自分の心は直接わかると思っている。そして、人というものは喜怒哀楽の感情をもち、さまざまな欲求を抱いていると同時に、まわりの状況を客観的に認識してもいる。それゆえ、人の振る舞いは、その人の心の中の感情や欲求や認識によって説明できる。例えば、彼女がニコニコしてるのは明日から休暇だからだ、彼がイラついているのは忙しすぎるからだ、等々。
183. 人間は、このような心的状態の帰属や自他の振る舞いの説明を、日常生活でほとんど無意識に、無数に実行しています。整理すると、私たちは以下のような心の理論をもっていることになる。
① 器物には心がないが、人には心がある。
② 心は本人にのみ直接とらえられる私秘的な領域をなしている。
③ 心の内容には感情や欲求や信念(事実認識)や意図などがある。
(なお、哲学文献で「信念(belief)」というのは、しばしばたんに各人の事実認識を言います。各人の事実認識は、客観的事実と正確には合致しておらず、思い込みを多分に含んでいる。よって、〝事実とは限らないが、本人は事実だと信じていること〟という意味で「信念」と呼ばれます。なお「信念」だからといって、その思い込みが〝強い〟ことは意味しません。)
④ 人の行為は、感情や欲求や信念や意図をその行為の理由として挙げることで、理にかなった振る舞いとして合理的かつ常識的に説明できる。
184. 以上の①から④のような心の理解は、誕生から4、5歳くらいまでのあいだに獲得されます。定型発達の場合、文化や言語によって獲得の時期や内容に大きな変化はないようです。①から④は、大ざっぱに見れば、どの文化圏でも成り立つと思われるので*、ヒトに共通の心のとらえ方と見なすことができます。こういう大まかな洞察を束ねたものを、心の理論と呼ぶわけです。
注*: この見方は、多くの哲学者や心理学者がとっていると思います。今回主に参照した、Tomasello, M. (2019). Becoming Human: a Theory of Ontogeny. Harvard University Press. もその例です。以下、この書物を参照するときは、Tomasello 2019, と表記して頁数を記します。
185. ③の欲求その他の個々の内容は、当然、時代や社会によって異なるでしょう。また④について、何が妥当な理由づけになるのかという了解も、時代や社会で異なるでしょう。しかし、人には心があり、心はひとりひとりのもので、心には欲求や信念といった心的内容があるという考え方、また人の振る舞いには心理的な理由があるという考え方は、大きな枠組みとして一致すると思われます。
3.別個の〈視点〉という問題
〈視点〉と私秘性
186. 今回の主題は、上述のとおり(178)、〈視点〉の違いに関して4、5歳で獲得される心の理論です。特に、私秘性の理解が焦点になります。前回確認したように、3歳児は、同一の対象に両立しない複数の〈視点〉を帰属させる課題にうまく答えられません(3の4:164)。
187. 前回の亀の絵の課題では、3歳児は、自分に正立して見えている亀が、机の向かい側にいる人物には逆立ちして見える、と回答することができません。同じ亀の絵について、自分と他人が違う知覚像を同時にもっていると考えることが、何らかの理由で難しいらしい。
188. ところが、4、5歳児は、この課題に正しく答えられる。つまり、同じ対象の見え方が自分と他人に対して違っている場面を、うまく処理できるようになる。4、5歳児は、心の私秘性を成人と同じ仕方で理解できるようになるわけです。
189. 4、5歳児の理解の内容を、哲学的な言葉遣いで言い表せば、以下のようになるでしょう。
同じ亀の絵が自分には正立に見えるが、向かい側の人物には倒立で見える。それは、同一の亀の絵が自分の〈視点〉では正立像になり、向かいの〈視点〉では倒立像になるということだ。それぞれの見え方(亀の心像)は、各人の心の中にあるから、自分の見え方と他人の見え方が直接に衝突することはない。両者は相互に干渉し合うことなく、別個の心の中の別個の意識内容として両立する。
190. このように、同一の対象に対する自分と他人の心的内容が食い違っても、それらが相互に干渉せずに、別個に維持される。これが心の私秘性が適切に理解されている状態です。
191. 同じものに対し、両立しない〈視点〉が複数同時にありうるのを理解し、うまく対処することは、社会生活の基本のスキルです。そのカナメの位置に、心の私秘性の理解があります。3歳児は、心の私秘性の適切な扱い方という社会生活のスキルを学んでいく途中の段階にあるわけです。
誤信念課題
192. 前回は、亀の絵の課題のほかに、スマーティの課題を紹介しました。被験者は、スマーティというキャンディの箱に実はエンピツが入っているのを見せてもらう。それに続けて、その場にいない友だちが、中を見せてもらわずにこの箱を見たらどう思うだろうか、と問われます。すると、3歳児の場合、友だちは箱にエンピツが入っていると思う、と回答してしまう(3の4:155-158、162&163)。
193. この課題では、被験者は、同じスマーティの箱に対して、自分が知っていることと、友人が〝知って〟いることが食い違う状況にさらされます。自分はエンピツが入っていると知っているのに、友人はスマーティが入っていると〝誤って信じて〟いる。3歳児はこの状況をうまく処理できません。
194. 3歳児は、自分が知っている事実を他人が知らず、かえって事実と違うことを信じてしまっている状況がうまく処理できないのです。簡単に言うと、他人が誤った信念をもっている状況を処理できない。この状況は誤信念課題(false belief task)と名づけられ、さまざまな実験が行なわれて厖大な数の論文が刊行されました。
195. 誤信念課題とは、例えば、次のようなものです。
花子がチョコレートを青い箱に入れて家に置いたまま、外へ遊びに行きました。花子がいない間に、お母さんがチョコを緑の箱に移しました。お母さんが買い物に行ってしまったあとに、花子が帰ってきて、チョコを食べたいと思いました。花子はどこを探すでしょう?
この課題は、ウィマーとパーナーの1983年の論文*で報告された有名な実験の一部分だけを、簡略に示したものです。末尾の問いへの回答を考えてみてください。
注*: Wimmer, H. and Perner, J. (1983). Belief about beliefs: Representation and constraning function of wrong belief in young children's understanding of deception. Cognition, 13, pp.103-128.
196. 状況はやや入り組んでいますが、正しい答えは「花子は青い箱の中を探す」になるはずです。お母さんが移したからチョコは本当は緑の箱の中にあるけれど、花子は移したのを知らないから、青い箱の中にチョコがあると誤って思い込んでいる。ゆえに、花子は青い箱の中を探す。おとなは容易にこのように推論できます。
197. しかし、3歳児の多くは、この状況を処理できません。緑の箱と答えてしまう。チョコは緑の箱に入っているという事実を自分が知っている場合、青い箱に入っているという誤った信念を他人に帰属させることが、どういうわけか難しいらしい。これはスマーティ課題で生じたのと同じような失敗です。
198. 誤信念の条件をもっと単純にしても同じ失敗が起こります。以下は、ややこしい設定がまったくない実験の例です。
「ジェーンは子猫を見つけたいと思っています。子猫は、本当は遊び部屋にいます。でも、ジェーンはキッチンにいると思っています。ジェーンはどこを探すでしょうか?」(Wellman and Bartsch 1988, 258)*
この実験では、実験者は被験者に、ジェーンは子猫がキッチンにいると思っている、と明示的に告げてしまいます。被験者の幼児は、込み入った推論をする必要はまったくありません。
注*: Wellman, H. M. & Bartsch, K. (1988) Young children’s reasoning about beliefs. Cognition, 30, pp.239-277.
199. こうしてほとんど答えを教えているのに、「ジェーンはどこを探すでしょうか?」と問われたとき、3歳児は「キッチンを探す」と答えることができません。「遊び部屋」と答えてしまう。3歳児の頭の中はどうなっているのか。ちょっとわけがわかりません。正答率は3歳児で16%、4歳前半児でも31% にすぎません。そして、4歳後半で急激に上昇して86% になります(Wellman and Bartsch 1988, 266)。
200. 紹介してきたのは、古典的誤信念課題と呼ばれる1980年代の実験報告です。その後の研究の進展によって、設定を工夫すれば、18月齢児でも、他人に誤った信念を帰属させることができるのが判明しました。誤信念の帰属それ自体は18月齢ですでに可能になっているのです。それなのに、上記のような古典的な課題には4歳を過ぎるまで正答できない。その原因は何なのか。
201. 問題は、自分と他人の心的内容が食い違っている場合の処理をどうするか、ということです。これは心の私秘性の理解にかかわっている。心の私秘性の理解とは、実質的に、同じ事柄について相異なる〈視点〉が複数ありうるのを理解する、という社会生活の基本のスキルのことでした。このスキルは、4、5歳で獲得されるわけですが、そこに何か特有の難しさがあるようです。以下では、18月齢児でも誤信念の帰属は可能なのだ、ということを示す実験報告をまず紹介し、次いで3歳児が直面している困難が何なのかに関するマイケル・トマセロの説明を検討します。
18月齢児と誤信念帰属
202. 以下に紹介するのは、バテルマンとカーペンターとトマセロの2009年の論文*における実験です。
注*: Buttelmann, D. M. Carpenter and M.Tomasello. (2009). Eighteen-month-old infants show false belief understanding in an active helping paradigm. Cognition 112, pp.337-342.
203. 誤信念条件での実験
[被験者] 被験者は18月齢の幼児、50名。(なお、同論文では16月齢児50名が被験者となる実験も報告されていますが、結果は誤信念の理解があると明言できるほどではなかった、とされています。その紹介は省きます。)
[実験装置] 幾つかのぬいぐるみと、30センチ四方の木製の箱2つ。箱は簡単な錠で蓋が開閉できるようになっている。
[実験手続き前半] 被験者は、実験者AおよびBと、ぬいぐるみでひとしきり遊ぶ。その後、実験者Bは、別のぬいぐるみを取ってくると言って、室を出て行く。Bは、大きな芋虫のぬいぐるみ(長さ25センチ)を持って戻ってくる。それをAと被験者によく見せたあとで、Bは、それを箱1に入れる。
[実験手続き後半:誤信念条件の設定] Bは鍵を忘れてきたといって、再度実験室を出る。Aは被験者に「いたずらをしよう」ともちかける。Aは、芋虫のぬいぐるみを箱1から取り出し、箱2に入れて鍵をかける。Bは部屋に戻って来て、箱に近づく。
[課題] Bは、空っぽの箱1を開けようとする。Aは被験者に「助けてあげて」とうながし、Bも「助けて」と言う。
[結果] 18月齢児の72.0% が、ぬいぐるみの入っている箱2を開けようとする。
204. 真なる信念条件での実験
[被験者] 誤信念条件と同じ。
[実験装置] 誤信念条件と同じ。
[実験手続き前半] 誤信念条件と同じ。
[実験手続き後半:真なる信念条件の設定] Bは部屋にずっと居続ける。Aと被験者は、Bが見ている状態で、芋虫のぬいぐるみを箱1から取り出し、箱2に入れて鍵をかける。Bはそれを見て、箱に近づく。
[課題] 誤信念条件と同じ。(すなわち、Bは空っぽの箱1を開けようとし、Aは被験者に「助けてあげて」とうながし、Bも「助けて」と言う。)
[結果] 18月齢児の84% が、Bが開けようとした空っぽの箱1を開けようとする。
205. 誤信念条件では、被験者の18月齢児は、実験者Bが開けようとした空っぽの箱1ではなく、ぬいぐるみが入っている箱2を開けようとします。被験者の幼児は、次のように推論したと考えられます。Bはぬいぐるみが入れ替えられたことを知らないので、ぬいぐるみの入っていると信じている箱1を開けようとしている、だからBはぬいぐるみが欲しいのだ。こう推論したから、「助けて」と言われたとき、幼児は、Bが開けようとしている箱1でなく、ぬいぐるみが入っている方の箱2を開けようとしたわけです。ということは、18月齢の幼児でも、Bが箱1にぬいぐるみが入っていると〝誤って信じている〟という誤信念のBへの帰属ができるのです。
206. 他方、真なる信念の条件での実験では、被験者は、Bが開けようとした箱1を開けるのを手伝います。幼児は、次のように推論したと考えられます。Bは、ぬいぐるみが入れ替えられたことを知っているので、ぬいぐるみが入っていない方の箱1を開けたい何らかの理由がBにはあるのだ。こう推論したから、幼児は「助けて」と言われたとき、Bが開けたい箱1を開けるのを手伝ったわけです。
207. 二つの条件下での結果は、18月齢児が他者の知識状態を推定し(即ち、Bが事実を知っているのか、誤って信じているだけか)、それに見合った意図を他者に帰属させて、自分の行為を他者の意図が実現するように調整する能力をそなえていることを示しています。簡潔に言えば、18月齢児は他人の心理を推定して効果的に協力することができる。そして、推定される他人の心理には、誤信念をもった状態が含まれる。
208. 3歳児は誤信念の帰属ができないのに、18月齢児ができるというのは一個の謎といってよいでしょう。なんらかの説明を与えることが必要になります。
4.トマセロの説明
209. マイケル・トマセロは、上の誤信念帰属をめぐる謎を取り上げて(Tomasello 2019, pp.64-81、特にpp.72-75)、「完全に説得的な証拠はない」(同p.74)ことを認めつつ、一つの説明を与えています。
4.1 説明の骨子
210. 説明の骨子は、以下のようなものです。第一に、ヒトは生まれ落ちたときから、協力する能力を徐々に発達させていくという事実があります。これは他の大型類人猿には見られないヒト特有の傾向です。第二に、他の個体の心理を読み取る能力は、他の大型類人猿にもあるという事実があります。
211. トマセロの考えでは、3歳から5歳の時期は、ヒト特有の協力する能力の発達が、類人猿と共通する他個体の心理を読む能力の運用と交錯して統合される時期に当たっている。そこに、18月齢でできたことが3歳でできなくなるという誤信念をめぐる謎を解く鍵がある。
212. すなわち、類人猿と共通のやり方で誤信念課題に対処すれば、正しく回答できる。18月齢児はこのやり方で答えている。だが、幼児はヒト特有の協力の能力が発達する途上にある。そこで、協力の能力が誤信念課題に影響を及ぼすと、3歳児の場合、その能力の発達が十分でないため、正しく回答できない。4、5歳児になると、協力の能力が十分に発達するので、その能力を誤信念課題に適用してもあやまたなくなる。
213. 3歳児に必要なのは、同じ対象に対し、両立しない〈視点〉が複数同時にありうると理解することです。つまり、これが協力の能力の十分な発達の実質をなすわけです。
214. 先回りして言うと、この発達過程で重要なのは、「同じ対象」という概念の適切な形成、言い換えれば、複数の主観が同時に認知する〝客観的実在〟という概念をもつことなのです。この概念形成が、私(たち)には非常に興味深い。なぜなら、幼児が獲得するこの客観的実在の概念こそ、これまで折にふれて取り上げてきた〝絶対的なるもの〟の祖型であるからです。
215. この客観的実在の概念が得られてはじめて、それに対して両立しない複数の〈視点〉が成り立ち、その〈視点〉がそれぞれの主観の中に位置づけられる。こうして両立しない〈視点〉が、相互に干渉し合うことなく並び立つことが可能になる。社会生活のスキルとしての心の私秘性の理解は、客観的実在(皆が共有しているこの世界)という概念を理解することと結びついているわけです。
216. では、トマセロの説明をもう少し詳しく見ていきます。
4.2 協力の発達過程
217. 協力する能力の発達過程を、トマセロの記述に沿ってかいつまんで述べます。まず、2月齢ころに、幼児と大人の感情の交流や共有が始まります。大人の発声や笑いに応じて幼児がキャッキャッと笑ったり微笑したりする。次いで喃語のやり取りがあり、さらに9月齢ころから、大人が注意を向けている対象に自分も注意を向けること、即ち共同注意(joint attention)ができるようになります。1歳から2歳のあいだにことばによるコミュニケーションが始まり、2歳を過ぎるころから会話の中で互いの〈視点〉をやりとりするようになる。3歳を過ぎるころから対立する〈視点〉の調整が必要な会話が行なわれるようになり、4、5歳で必要な調整に成功するようになる。(Tomasello 2019, Chap. 3)
218. 感情の共有から始まって、対立する〈視点〉の共存に到る過程は、他人と協力して社会生活を成り立たせるために不可欠といえます。チンパンジーは、他個体の意図や認知を洞察できますが、協力するという発想自体が欠けているらしい。この点には後で触れる機会があります(244-247)。
感情の交流と共有
219. 2月齢で始まる感情の交流については、ずいぶん前に一度触れたことがあります(1の3:3.28, 3.29)。新生児が母親に強い執着を示すのは他の大型類人猿と同じですが、ヒトの場合、母親以外のまわりの大人すべてに愛想を振りまく傾向がある。これは他の大型類人猿には見られないとされます。
220. ヒトは進化の過程で、母親以外の人々も赤ちゃんの養育にたずさわるように育児の方法が変化した。幼児は、生きのびるために母親以外の人間の注意を引き、世話をしてもらわねばならない。こうして、ヒトの幼児は幅広く周囲の人々に愛想を振りまくようになった。こう説明されます(Tomasello 2019, 54-55, 307)。
221. 非常に幼いときから始まるこのような感情の交流と共有は、原会話(protoconversation)と呼ばれます。実験では、母親が優しい声音で肯定的な感情を表出すると、幼児が微笑みで応えるといったやり取りが成立し、交流が中断すると幼児は目に見えて動揺する。大型類人猿には原会話は見られないようです。(Tomasello 2019, 55)
共同注意
222. 9月齢ころに可能になる共同注意とは、大人の視線の先にあるものを突き止めて幼児もそれを見る、という活動を言います。単純に考えると、共同注意とは、他個体の見ているものを自分も見ることだと言えそうですが、これは「視線追尾(gaze following)」と呼ばれる行動で、トマセロは視線追尾と共同注意を区別します。視線追尾はチンパンジーも行ないます。だが共同注意をチンパンジーに見出す試みは、すべて否定的な結果に終わっている。(Tomasello 2019, 57)
223. 共同注意は、幼児と大人が同一の対象に注意を向けているということを、幼児と大人の両方がわかっている、という状態を言います(Tomasello 2019, 56)。共同注意が間主観的な相互理解(お互いに同じ対象を見ているのがわかっている状態)をともなっているのに対し、視線追尾は、個体Aが個体Bの見ている対象を見る、という事実が成立しているだけで、AとBの間にお互いが同じ対象を見ているという相互理解はありません。
224. 共同注意は、幼児が言葉を習得する基礎の一つです。例えば、大人が一匹の犬を指差して「わんわん」と言ったとき、大人は、幼児が同じ対象に注意を向けていることがわかっていなければならない。さもないと、そのものの呼び方を教える試みは成功しません。幼児も、自分が大人と同じ対象に注意を向けていることがわかっていなければならない。さもないと、大人の発声から何かを学習することはできないでしょう。
225. なお、言葉の学習が成立するためには、共同注意だけでなく、さらに幼児の側での大人の伝達意図の理解や役割交替の理解が必要になります*。すなわち、「わんわん」という音声を当該の対象に対して幼児が使うように仕向ける大人の意図の理解、および、大人が発声するのを真似て次の機会には自分が発声するという役割の理解が、幼児の側で必要になります。
注*: トマセロ『ことばをつくる』辻幸夫ほか訳、慶應義塾大学出版会2003、pp.28-29。
226. ただし、共同注意が成立していなければ、そもそも伝達意図も役割交替も登場する場がありません。この意味で、共同注意は言語活動を含めてありとあらゆる人間的な社会的相互作用の基礎になる決定的な能力らしい(チンパンジーに共同注意が観察されないのは示唆的です)。そういう次第で、9月齢における共同注意の成立は、9月齢革命(the nine-month revolution)と呼ばれることがあります(Tomasello 2019, 54等)。
〈視点〉のやり取り
227. 2歳過ぎころから観察される会話の中での〈視点〉のやりとりとは、例えば、幼児が「あの鳥、虫くわえてる」と言い、母親が「ちがう、あれは小枝よ」と応ずる、といった会話のなかで実現されていることです(Tomasello 2019, 67)。このなにげないやり取りを順を追って分解すると、以下のようになります。
228. まず何かをくわえている鳥に幼児の注意が向かう。そして、「あの鳥、虫くわえてる」が発話されます。母親はそれを聴くと、同じ対象に注意を向け、ここで幼児と母親は共同注意の状態に入ります。幼児と母親は、それぞれ相手が自分と同じ対象に注意を向けていることがわかっています。
229. 母親は、幼児の発話に対して「ちがう、あれは小枝よ」と注釈します。幼児は、このとき、自分が注意を向けている対象に別の〈視点〉があることを提示されるわけです。
230. 別の〈視点〉があることの理解が可能になるのは、先行して共同注意が成り立っているからです。なぜなら、「あれは小枝よ」の「あれ」が鳥のくわえているものを指すということがわからないかぎり、同じ対象に対する別の〈視点〉というものは生まれない。そして、「あれ」の指示対象を幼児が特定できるのは、共同注意という活動のなかで、自分が母親と同一の対象を見ていることがわかっているからです。共同注意は、「あれ」の指示対象を幼児がまちがいなく特定するための文脈を与える。自分は虫だと思って見ている対象が、「あれ」で指し示されており、なおかつ、それが小枝であると言われている。このとき、幼児は自分の見ている世界に別の〈視点〉というものがあるのだ、ということを発見するわけです。
231. 「虫」と「あれ」と「小枝」が同じものを指すという文脈が与えられて、はじめて、同一の対象に相異なる複数の〈視点〉が成り立つという事態を認識できるようになる。そこに虫を見ているのは幼児であり、小枝を見ているのは母親ですが、虫と小枝を同一のものについての二つの〈視点〉として成立させているのは、「あれ」という指示語で指し示されている客観的実在 X です。Xは、虫かもしれないし、小枝かもしれない。あるいは、虫でも小枝でもない別のものかもしれません。
232. 図式的に言うと、共同注意という形式で、〝我々〟が同一の対象を見ているという間主観的(intersubjective)な〈視点〉が成立する。共同注意および間主観的な〈視点〉は9月齢前後で可能になる。その後、言葉をおぼえ、会話を重ねるにつれて、〝わたし〟と〝あなた〟という個別の〈視点〉が、同一の客観的実在にかかわっていることが分かってくる。
233. 9月齢の時点では、幼児には間主観的な〈視点〉からの見え方を判明に意識することはできないでしょう。間主観的な〈視点〉からの見え方(とらえ方)は、〝わたし〟の見え方でも、〝あなた〟の見え方でもありません。それは客観的実在の記述(客観的な世界の言語化)の形をとります。その記述は、発達を通じて徐々に判明になっていきます。
234. 客観的実在の初歩的な記述は4、5歳でできるようになる。その記述は、4、5歳以降ずっと続く成長過程のなかで、まわりとの相互作用を通じて何度も書き換えられていくでしょう。客観的実在の理解は詳しくなっていく。さらには、やや飛躍しますが、客観的実在についての記述の総体は、世代を越える人類全体の共同的な作業のなかで書き換えられていくものであると思います。
235. 3歳前後に客観的実在 X が意識される段階まで到達したとき、ここではじめて、同一の客観的実在に対立する二つ以上の〈視点〉が帰属されるときにどうするか、という問題が生じます。このとき、〝対立する〈視点〉の調整(coordination)〟が必要になる。上で見たように、3歳児はこの調整にしばしば失敗します。
236. それはなぜなのか、というのがさしあたっての問いでした。この問いに答えるためには、しかし、他人の心理を読み取る大型類人猿と共通の能力の方を一瞥しておかねばなりません。
4.3 他個体の心理の読みとり
チンパンジーにおける他個体の意図の読みとり
237. チンパンジーは視線追尾ができるだけでなく、他の個体が見ている内容を想像することができます。例えば、優位な個体から見える場所と見えない場所に食物が置かれていて、劣位の個体からは両方が見えているとします。この実験条件では、劣位の個体は優位な個体から見えない隠れた場所にある食物を取ります。劣位のチンパンジーは優位な個体の知覚内容を想像し、相手がやりそうなこと(相手の意図)を予想して、食物が奪われるのを避けるように行動するわけです。(Tomasello 2019, 48)
238. また、優位な個体から見えない隠れた場所に食物を置くけれど、それを置くところを優位な個体が見ていた場合と、見ていなかった場合、という実験条件では、劣位の個体は、置くところを優位な個体が見ていた食物は取らず、見ていなかった方の食物を取ります。劣位のチンパンジーは、優位な個体が食物の在り処を知っているかいないかを考えに入れることができるのです。相手の知識状態を想像し、相手の意図を予想し、食物が奪われるのを避けるわけです。(Tomasello 2019, 48)
239. このとおり、チンパンジーは他個体の知覚内容、知識状態、意図といった心的内容を的確に想像できます。さらに、上で紹介した18月齢の幼児が正しく答えられる誤信念課題をチンパンジー向けに改変した課題では、チンパンジーは誤信念をある程度まで理解しているという結果が得られています。(Tomasello 2019, 49)
240. チンパンジーは、このように他個体の心のあり方をかなりよく読み取ることができます。ところが、協力するという文脈では、他個体の意図がまったく読み取れなくなる。
チンパンジーと協力
241. チンパンジーは、例えば、人が地面に落ちている食物に視線をやって指し示すのを見ると、その方向を探索して、食物を発見して自分のものにすることができます。視線や指し示す動作の〝意味がわかる〟と言ってもよさそうです。(トマセロ『思考の自然誌』勁草書房2021, p.86)
242. しかし、実験で食物が二つの容器のうちの一つに隠してあって、入っているのは二つのうち一つだけだとチンパンジーに分かっている。こういう条件を設定すると、人が食物の入っている容器に視線をやって指し示しても、チンパンジーはその方向を見るだけで、容器を取りません。チンパンジーはこの条件下では、視線や指し示す動作の〝意味がわからない〟わけです。(トマセロ『思考の自然誌』勁草書房2021, p.86、Hare, B. and M. Tomasello. (2004) Chimpanzees are more skillful in the competittive than in cooperative cognitive tasks. Animal Behavior 68 (3): pp. 571-581.)
243. ところが、さらに設定を変えて、人がその食物を手に入れたがってチンパンジーと競争する、という状況に改めた場合は、人が容器に手を伸ばす(指し示す)のを見ると、チンパンジーはそこに食物があることを即座に理解して、容器を自分が取ります。競争的な条件下では、手を伸ばす(指し示す)動作の〝意味がわかる〟のです。(トマセロ『思考の自然誌』p.86、Hare and Tomasello 2004)
244. チンパンジーは、他の個体と競争する状況では、相手の意図がわかる。しかし、他の個体が協力してくれる状況では、相手の意図がわからない。
「チンパンジーたちは、「彼は、あの容器を欲しがっている。ゆえに、食物はあの中にあるに違いない」という競争的な推論は行なう。だが、「彼は、食物があの容器に入っているということを私に知らせたいのだ」という協力的な推論は行なわない。」(トマセロ『思考の自然誌』p.87)
チンパンジーには、要するに、他個体と自分が協力するという発想自体がないらしいのです。
245. この「彼は……ということを私に知らせたい」という意図は、「私」に向けた「彼」の伝達意図です。〝相手がこちらに対して有益な情報の供与を意図する〟という伝達意図は、チンパンジーの理解を越えている。同じことですが、相手が自分に協力してくれること自体が想定外である。一体どういうことなのか。
246. もともとチンパンジーには共同注意という活動がありませんでした。競争的状況ではない場合、(ア)「自分も相手もあの容器に対して関心を向けている」という相互理解が起こらない。だから、(イ)「なぜ、相手はあの容器に関心を向けているのだろう?」という疑問も生じない。それゆえ、(ウ)「あの容器を指し示しているのは、あの容器に食物が入っているからだ」という推論も起こらない。その結果、その容器を取る、という行動が起こらない。こう考えられます。
247. トマセロは、(イ)から(ウ)にいたる推論を、関連性(relevance)の推論と呼んでいます。自分の関心にカナメのところで関連する(relevant)事柄を推論する形になっているからです。チンパンジーは、競争状況以外では関連性推論を行なわないのです。(トマセロ『思考の自然誌』p.87)
248. (ア)の相互理解から(イ)の疑問が生まれて(ウ)の推論にいたる過程は、全体で、〝相手がこちらに対して有益な情報の供与を意図している〟のがわかること、即ち〝伝達意図〟がわかることを構成します。情報以外の有益なものを含めて、〝相手がこちらに対して《なんらかの有益なもの》の供与を意図している〟と書き改めれば、これは協力する意図一般といってよい。チンパンジーに共同注意が起きず、関連性推論が行なわれないことは、伝達意図が、ひいては協力する意図一般が、理解できないことを帰結します。チンパンジーにとって協力そのものが想定外であるとは、こういうことです。
249. このエピソードは、他の個体の心的状態がわかることが、必ずしも情報の共有に結びつくものではないことを告げています。チンパンジーは、他個体の知覚状態や知識状態はわかっていて、その状態で相手が何を意図するか、ということも予測できる。この意味では、他個体の心的状態がよくわかっている。ところが、「彼は、食物があの容器に入っているということを私に知らせたいのだ」ということはわからない。協力的な情報の共有というものがない世界にチンパンジーは生きています。
4.4 ヒトの幼児と誤信念課題の謎
250. 他個体の心理が読み取れるからといって、協力が可能になるわけではない。このことが、チンパンジーと協力の検討から明らかになったと思います。協力ができるなら、他個体の心理の読み取りもできるけれど*、他個体の心理の読み取りができても、協力できるとは限らない。協力の発達経過(4.2)と他個体の心理の読み取り(4.3)はどうやら別の過程なのです。
注*: 生物学的共生(symbiosis)は、協力(cooperation)とは違うと見なします。イソギンチャクとクマノミは共生しているだけで、協力してはいない。共生の場合、互いの心理の読み取りはなくてかまいません。
251. 18月齢児が上述の誤信念課題(203, 204)に正しく応答できるのは、チンパンジーと同様に、大人の知識状態に沿って推定したからでしょう。現に、類似の誤信念課題でチンパンジーは正答します(239)。
252. 3歳児も、行為者の知識状態だけに注意して、チンパンジーや18月齢児と同じように単純な推論を行なえば、誤信念課題に正答できるはずです。だが、3歳児は、早くからできるはずのそういう推論を行なっていない。おかしな具合に間違えます。これが3歳児と誤信念課題をめぐる謎です。
253. トマセロの説明はこうです。幼児は、他人の心理を読み取る能力だけでなく、ヒト固有の協力する能力の発達過程をも生きている。3歳児は、ちょうどこのころ協力の発達過程において姿を現してくる客観的な〈視点〉に、いわば引っ張られてしまうのだ。ここは、トマセロ自身に語ってもらいましょう。
「もしも3歳児が、1歳から2歳の幼児のように、行為者の知識状態を追いかけているだけだったら、3歳児は検査に合格しただろう。私たちの仮説は以下のとおりである。3歳児の誤りは、実際には概念的な進歩を表現しているのである。というのも、この誤りは、問題状況における客観的〈視点〉(an objective perspective)の概念化が出現しつつあることに由来しているからである。誤りは、いかなる個人の主観的〈視点〉からも独立に、状況が実在的にはどうであるのか、を概念化することから生じる。こういう理解の仕方がちょうど出現しつつあるので、3歳児はこれを広く当てはめすぎてしまう。人々は何かを探すとき客観的〈視点〉によって導かれると決め込んでしまうのだ。(すなわち、〝実在に引っ張られる(a "pull of the real")〟のだ。)」(Tomasello 2019, 73)
254. 具体例で言うと、花子とチョコレートの例(195)では、お母さんがチョコを緑の箱に移したのを花子が知らないということは、被験者の幼児もよくわかっている。他人の知識状態を推定することはできるからです。しかし、3歳を過ぎると、自分の〈視点〉でも花子の〈視点〉でもなく、客観的〈視点〉からは状況がどうとらえられるのか、という理解の仕方ができるようになる。この例の場合、客観的にはチョコは緑の箱にある。およそ人が何かを探すとしたら、それが客観的にある場所を探すのがまともなやり方のはずだ。だから、花子は緑の箱の中を探す。3歳児はこう推定する結果になる。
255. この誤った推定は、客観的〈視点〉というものが分かりかけてきた3歳児が、いわば客観的〈視点〉の〝強さ〟を測り違えることから生まれるわけです。これが〝実在に引っ張られる〟ということです。こうして、3歳児は、客観的〈視点〉の影響が及ぶ範囲を広く取りすぎた結果、古典的誤信念課題に誤った回答をしてしまう。これがトマセロの説明です。
256. スマーティ課題(194)も単純な誤信念課題(200)も、上と同じやり方で説明できます。しかし、亀の絵の課題は同じやり方ですぐには説明できません。トマセロは、亀の絵の課題に触れていますが(Tomasello 2019, 69)、特に説明は与えていません。ある対象が他人にどう見えているのかを問う視覚的な〈視点〉の推定問題にかんしては、亀の絵の実験ではなく、色付フィルターを使った実験を取り上げています(同上 70)。
257. この実験は、青い色の物体を、黄色のフィルターを透して見る(緑に見える)場合と、フィルターを透さずに見る(青く見える)場合を対比するものです。被験者の幼児が自分の〈視点〉と実験者の〈視点〉を同時に同定せねばならない設定に置かれると、3歳児は、自分に青く見えている物体が、黄色のフィルターを透して見ている実験者にも青く見えていると答える傾向があった、と報告されています(同上)。
258. この実験の場合は、フィルターを透さずに見ている自分の〈視点〉こそ、対象の実在の色をとらえている客観的〈視点〉だ、と見なすのは自然な流れでしょう。すると、この実験でもやはり3歳児では客観的〈視点〉から見た〝実在に引っ張られる〟現象が起こっているわけです。
259. 亀の絵の課題についても、この説明を参照して、次のように説明できそうです。被験者に正立で見えていて、実験者に倒立で見えている状況で、被験者自身の〈視点〉と実験者の〈視点〉を同時に同定せねばならない設定に置かれると、被験者は、自分に見えている像こそ実在を告げている、と考えてしまうのかもしれません。こういうことならば、〝実在に引っ張られる〟現象が起こっていることになります。
260. トマセロは、3歳児は〝実在に引っ張られる〟のだという説明に「完全に説得力のある証拠」(Tomasello 2019, 74)は得られていないと認めています。とはいえ、3歳児が客観的〈視点〉を広く当てはめすぎてしまうのには理由があると言います。幼児は大人に囲まれて暮らしていて、大人はしばしば客観的〈視点〉からものごとを教示する。にもかかわらず、幼児はその大人が客観的〈視点〉を学ぶところを見たことがないからです。
261. 例えば、「母親というものは、お友だちの家で起こったことを、そこにいなかったのに知っていたりする」(Tomasello 2019, 73-74) つまり、その人物が客観的〈視点〉を得るところを幼児自身は見ていないのに、その人物が客観的〈視点〉からものごとをとらえている事態に幼児が出くわすことは多い。となれば、客観的〈視点〉を広く当てはめすぎてしまうことも起こりうる。トマセロはこのように説明を補足しています。
5. 観念説と〈視点〉の問題
262. 哲学的な装置としての観念説と、以上の発達心理学をめぐる話題とがどのようにかかわるのかを述べておきます。
263. 幼児の発達過程の描写を通じて、次のことが明らかになっています。個々人のそれぞれの〈視点〉は、客観的〈視点〉と対比されてはじめて成立する(230, 231)。別の言い方をすると、私秘的な領域としての個人の心は、客観的〈視点〉が与える公共的な領域(客観的実在)との対比のなかではじめて出現してくる。あるいは、観念説の言葉遣いを用いるなら、私の心の中の観念は、私の心の外の実在の世界と対比されてはじめて成立する。
264. これは、論理的には、「内」と「外」は相互に対比されてはじめて意味をなす、ということです。この論理は、かつて夏目漱石の内発性という概念をめぐって使ったことがあります。「外がなければ内もない、他なる存在がなければ自分という存在もない」(1の17:4.225) だから、文化における純粋な内発性を求めるのは、不可能を求めることであって、そもそも意味をなさない。こういう話をしました。一般に、純粋な内部とか純粋に私的な領域といったものは考えようがないのです。
265. 観念説は、しかし、外界には何もないとしても、私の心の中の観念はある、と主張する哲学的装置だった。デカルトは、「世にはまったく何ものもない、天もなく、地もなく、精神もなく、物体もない」*としても、考える私は存在しており、その意識様態としての観念もまた存在する、と主張しました。
注*: デカルト『省察』「省察二」(野田又夫編『世界の名著 デカルト』中央公論社1967、p.245)
266. 発達心理学の知見を通じて明らかになったのは、デカルト的な観念説の主張は、文字通りに受け取れば、無理があるということです。幼児は心を私秘的な領域として見出す前に、共同注意という仕方で人々と共有する世界を見出す必要がある。次いで、会話のなかで、自分以外の〈視点〉があることに徐々に気づき、それを通じて客観的〈視点〉および客観的実在という概念を獲得する必要がある。しかるのちに、客観的実在に対して自分の〈視点〉があり、他人の〈視点〉がある、という仕方で、はじめて私秘的な領域を見出すのです。
267. 心の私秘性は、共同注意と、会話を通じた客観的〈視点〉の形成を前提とします。誇張していえば、心という私秘的な領域は、あらかじめ存在している客観的・公共的な世界の中に、〝あなたの取り分〟として人々が認めた領域に過ぎない。こう考える方が、少なくとも発達心理学的なヒトの成長過程には合っています。観念説の、外的世界が一切存在しないとしても私の心の中の観念の世界は存在する、という主張は、ヒトの発達過程という自然の枠組みからは外れていると言わざるを得ません。
268. すると、ではなぜ、観念説はヒトの自然本性からはこの通り〝ずれて〟いるのに、西洋近代哲学の基本的な思考の枠組みとして受け継がれることになったのか、ということが改めて謎になります。
269. 前回、「観念はそれ自体として見れば偽にならないというデカルト以来の観念説の主張は、意識内容に関する人類共通の事実からは〝ずれて〟いる」(3の4:145)という指摘を行ないました。今回、これに加えて、外的世界が一切存在しないとしても私の心の中の観念の世界は存在する、という主張も、ヒトの自然本性から〝ずれて〟いる、と指摘する結果になりました。
270. この二つの〝ずれ〟に、西洋近代思想の特徴が現れているはずです。二つ主張を一つにまとめると、自分の観念世界は、外界と切り離すことができ、それ自体で真理として存在する、という主張になる。この、ある意味で途方もない主張が、どういう歴史から生まれ、どういう歴史を作ったのか、これから少しずつ考えて行きます。
271 では、次回は12月14日土曜日に公開する予定です。