見出し画像

西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の12]

4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.4 愛の思想について

4.4.1 愛と意志

まえおき
447.  前回、恋愛を肯定する前近代の日本思想として、本居宣長(1730-1801)の「物のあわれ」の説を紹介しました。「物のあわれ」は、事物に接したときの人間の感情的な反応一般を指す言葉です。事物に接すると、人は、嬉しいとか悲しいとか、腹立たしいとか喜ばしいとか心が動く。心が動いて何かを感じるとき、人は物事の本質に触れている。それが「物のあわれを知る」ことでした(番外編2の11:423-425)。

448.  宣長の言葉をつないで同じことを述べてみます。まず、「心の動くは、みな感ずるなり」(『紫文要領しぶんようりょう』64頁*)とある。そして「「物に感ずる」がすなはち物のあはれを知るなり」(『石上私淑言いそのかみのささめごと』第一二項 283頁**)である。もう少し具体的に言えば、「何ごとにも心の動きて、うれしとも悲しとも深く思ふは、みな「感ずる」なれば、これがすなはち「物のあはれを知る」なり」(同上284頁)となる。何かに接して心が深く動くことが「物のあわれを知る」ということなのです。

注*: 日野龍夫(校注)『新潮日本古典集成 本居宣長集』(新潮社1983)所収の『紫文要領』の頁付け。
注**: 日野龍夫(校注)上掲書所収の『石上私淑言』の問いの項目番号と頁付け。

449.  このように「物のあわれ」は感情一般を広くいうのですが、宣長は、なかでも恋愛感情を特に重んずる。「人情の深くかかること、好色にまさるはなし。さればその筋につきては人の心深く感じて、物の哀れを知ることなによりもまされり」(『紫文要領』141頁)と言っている。「好色」とあるのは、恋愛のことです。人情が深くかかわる点で、恋愛にまさるものはない。恋愛において、人の心は大いに動かされ、他のどんな体験よりも物のあわれを知る結果になる。

450.  恋愛はしばしば世の規範に背くことがあります。だが、「物語にはその悪をば棄ててかかはらず、その物の哀れをしるをもてよしとす。」(『紫文要領』89頁) それでは、恋愛が肯定されるのは、物語や歌の世界の中だけで、現実世界では許されないのか。これが前回最後に提出した問いでした。

「物のあわれを知る」ことと現実世界
451.  「物のあわれを知る」こと、つまり物事に触れてその本質を知り、深く感動すること一般は、物語の世界だけでなく現実の世界で起こり、しばしば肯定的に評価されることです。この点は、前回、浪費の無価値さを深く感じることも物のあわれを知ることである、という宣長の挙げた例で確認しました(番外編2の11:445)。では、世の規範に背く恋愛も、物のあわれを知ることではあるから、現実世界においても肯定されてよい、と宣長は言うのかどうか。

452.  前回引用した『恋愛論アンソロジー』*の編者、小谷野敦は、『紫文要領』の一節の短い解説文で「光源氏と藤壺中宮のような「不義密通」については、虚構の中だから許されるのか、現実に行ってもいいのか、宣長の論は曖昧なままである」(『恋愛論アンソロジー』p.128)」と述べていました(番外編2の11:441)。

注*: 小谷野敦(編)『恋愛論アンソロジー』(中公文庫2003)。

453.  もう少し立ち入った判定が、日野龍夫によって下されています。日野については、前回、「物のあわれ」が江戸時代の普通の言葉だったという考証を紹介しましたが*、日野の解釈によると、不義の恋をめぐって宣長が述べた「はなはだ不完全な規範」(日野「解説」542頁)**は、「宣長の理論の中」(同上)では「決して不完全ではなく、十分に人間の生き方の規範でありえている」(同543頁)ということになる。「不完全」というのは、現実世界において「具体的にどうせよということを指示すること〔が〕できない」(同542頁)ということです。だから小谷野の「曖昧」という指摘と通じますが、日野は、しかし、宣長の理論を受け入れるかぎりで、現実世界の規範として成り立つ、とも指摘するわけです。

注*: 番外編2の11:426-428参照。
注**: 日野「解説」542頁は、日野龍夫「解説 「物のあわれを知る」の説の来歴」、日野龍夫(校注)『新潮日本古典集成 本居宣長集』(新潮社1983)542頁のこと。

454.  ただし、日野は、根本にある宣長の理論そのものの価値をまったく認めない。だから、〝「宣長の理論の中」では〟というのは、〝本人の思い込みでは〟というのと同じことです。本人の思い込みでは、「物のあわれを知る」ことを生き方の唯一の原理とする立場が、現実世界の規範として成立するけれど、そもそも本人の思い込みが荒唐無稽なので、全体として、宣長の主張はまったく成り立たない。これが日野の最終的な判定です。

455.  宣長の思い込み、ないし理論とは、「『古事記』の伝承の無条件信仰、皇祖神絶対崇拝、皇国中心主義などの、今日からすればもはや一顧の価値もない、この上なく無意味な神道説」(日野「解説」546頁)です。こういう神道説をすべての人々が受け入れて、その説くとおりに生きるのなら、「物のあわれを知る」ことを現実世界における生き方の唯一の原理とすることも可能かもしれない。だが、そんな神道説を受け入れることなどできない。だから、「物のあわれを知る」ことを生き方の原理とする立場は、現実世界の規範としては無効である。こういう否定的な判定が下されているわけです。

456.  以下では、日野「解説」の論旨を紹介します。そのあとで、といっても次回になりますが、「物のあわれを知る」ことを原理とする立場が、現実世界の規範としてなぜ成立しないのかについて、私の気づいた点をいくつか指摘します。

「物のあわれを知る」の位置づけ
457.  日野「解説」は、「物のあわれを知る」ことが、当初は物語解釈の規範として始まりながら、後年には政治的な規範にまで膨張する過程を追い、それを促した要因を明らかにしようとしています。「物のあわれを知る」ことは、宣長の理論の中で、その位置づけを変えて行ったわけです。

458.  本居宣長は、当時としては長命で、享保15年(1730)に生れ、享和元年(1801)に歿しました。宝暦13年(1763)、宣長33歳のとき、『源氏物語』を論じた『紫文要領しぶんようりょう』が書かれ、おそらく同じ年に和歌を論じた『石上私淑言いそのかみのささめごと』が書かれている。ただしこちらは未完に終っています。日野「解説」によれば、すでにこの二著のあいだで、物のあわれを知ることの意義の語り方に違いがある。

459.  物のあわれを知ることの意義は、『紫文要領』では『源氏物語』の解釈に限って主張されている。だが、『石上私淑言』では歌論を超える傾向を見せる。この傾向は、晩年に『源氏物語』をあらためて論じた宣長69歳のときの著作、『源氏物語玉の小櫛』ではもっと明瞭に表明されており、物のあわれを知ることは、現実世界の政治の規範として意義があると主張されるに至ります。

460.  まず宣長の当初の立場はどうだったのか。『紫文要領』(宝暦十三年 / 1763)では、宣長はこう述べていました。

「歌・物語は、……身を修め、家をととのへ、国ををさむる道にもあらねど……また一様のよし悪しあるなり」(『紫文要領』83頁。なお引用中の「……」は引用者による省略があることを示します。以下同じ。)

和歌や物語は、儒教のいう修身、斉家、治国には関わらない。だが、この種の道徳的・政治的な善悪とは別の、特有の善し悪しの規準がある。すなわち、

「物語のよきとするは、物の哀れを知る人なり。悪しきとするは、物の哀れを知らぬ人なり。」(『紫文要領』73頁)

だから、物語は、読む人に物のあわれを知れと教えるものであるといえる。

「物語は物の哀れを書き記して、読む人に物の哀れを知らするといふものなり。されば物語は……しひて教戒といはば、儒仏のいはゆる教戒にはあらで、物の哀れをしれと教ふる教戒といふべし。」(『紫文要領』85頁)

このように、現実世界においては、儒教の修身、斉家、治国の教えが善悪を定める一方で、歌や物語の世界においては、「物のあわれを知る」ことが善悪を定める。当初は、こういう棲み分けが成り立っていたわけです。

461.  『石上私淑言』も不義の恋を扱うときなどにはこの棲み分けをやはり踏襲しますが(第七四項)、これとは違う側面が見られる箇所もある。例えば、「歌の道のみ神代の心を失はぬ」(『石上私淑言』第六八項 417頁)と言われる。「神代の心」とは、儒仏の教えが日本にやってくる以前の理想的な状態をいいます。

「わが御国みくに天照大御神あまてらすおほみかみの御国として、他国々あだしくにぐににすぐれ、めでたくたへなる御国なれば、人の心もなすわざもいふ言の葉も、ただ直く雅やかなるままにて、天の下は事なくおだひに治まり来ぬ〔る〕」(同上414頁)

歌の道だけは神代の心を失なっていないとは、歌の道だけが、人々が素直で天下が穏やかに治まっていた神代に通じているということです。このように、物のあわれを知ることは、文学の領域を超えて古代の理想的統治と結びつく傾向を見せている。

462.  『石上私淑言』には、歌を通じて物のあわれを知ることを、もっとはっきり現実の統治の心構えと結びつける言葉もあります。引用を交えて抄訳します。

 およそ、民を治め国を統治する人は、人々の気持ちを理解し、その心の動き(「物のあはれ」)を知らなくてはいけない。歌というものは、うれしかったり悲しかったり心に深く思うことを、ありのままに詠むものであるから、歌に親しめば、自分の体験していないことでも、「心にしみてはるかに推量おしはかられ」るものだ。だから、人の気持ちがよく解るようになって、「おのづからあはれと思ひやらるる心の出で来て、世の人のために悪しかるわざはすまじきもの」と思うようになる。これは物のあわれを知らせる効果である、云々。(『石上私淑言』第七九項 443-444頁)

 これは情操教育の効果を説くありふれた言葉にすぎませんが、「物のあわれを知る」ことが現実世界に関与する一側面を示しています。

463.  この考え方は、36年後の『源氏物語玉の小櫛』(寛政十一年 / 1799)では、もっとはっきり述べられています。

「物の哀れをしるといふことをおし広めなば、身を修め、家をも国をも治むべき道にもわたりぬべきなり。人の親の子を思ふ心しわざを哀れと思ひ知らば、不孝の子は世にあるまじく、民のいたつき(労苦)・やっこのつとめを哀れと思ひ知らむには、世に不仁の君はあるまじきを、不仁なる君・不孝なる子も世にあるは、いひもてゆけば、物の哀れを知らねばぞかし。」(日野「解説」507頁の引用)

ここに至ると、「物のあわれを知る」ことが、伝統的な儒教の教えの領分に踏みこんで、身を修め、家を斉え、国を治めることまで及ぶものとして語られるようになっている。親が子を思う気持ちと振る舞いをよく理解すれば、親不孝の子はいるはずがない。民衆の苦労や奉公人のつらさをよく理解すれば、思いやりに欠ける主君はいるはずがない。それなのに思いやりのない主君や親不孝の子がいるのは、物のあわれを知らないからである。つまり、物のあわれを知れば、親子関係も、君臣・君民関係もうまく行くというのです。

464.  後年の宣長においては、「物のあわれを知る」ことは、このように文学の領域を越えて、現実世界において「人と人とが平和で幸福な関係を作り上げ、ひいて社会全体が平和で幸福になる」(日野「解説」508-509頁)ための社会の規範でありうると主張されるに至りました。どのようにして、このような推移が起ったのか。この問いに答えることが日野「解説」の主題です。

465.  私たちは、「物のあわれを知る」ということが、愛を肯定的に評価する思想として現実世界において成り立ちうるのか、という点に関心がある。「物のあわれを知る」という規範が現実世界に置かれると、愛がどのような難題を抱え込んでしまうのか、日野「解説」を手がかりにして考えることができます。

同時代への宣長の反撥
466.  上でもふれたように(453)、日野によれば、「物のあわれを知る」という言葉は江戸時代人にとってごくありふれたものでした。宣長の用例とは独立に、人情本や時代物の浄瑠璃のなかでしばしば使われていた(日野「解説」511-515頁)。宣長が、歌や物語の解釈に日常の言葉をあえて用いた動機は一体何だったのか。

467.  宣長は、少年時から読書を好み、漢籍も和書も手当たり次第に読んでいたらしい。十七、八のころには歌を詠みはじめ、二十歳前後の頃すでに和歌や『源氏物語』についての覚書を作っていた*。二十代半ばに医学修業のため京都に遊学しますが(宝暦2年~7年 / 1752-1757)、おそらくその終り頃に『石上私淑言』の原型になる歌論『排蘆小船あしわけおぶね』が書かれる。歌に道徳を持ち込むことへの反撥はすでに明らかで、歌は善悪の教えを目的としない、だから恋の歌が多かろうが全然かまわない、心に思う通りに和歌という形式を使えばよい、などと述べています**。

注*: 『本居宣長全集 第四巻』大野晋「解題」10-11頁。
注**: 「この道、善悪教戒をもちて旨とせず。されば恋の歌多き、何ぞあづからん。ただ心に任せて用ひる者なり。」(『排蘆小船』、鈴木淳・小高道子(校注・訳)『新編日本古典文学全集 近世随想集』所収、293-294頁)。

468.  歌や物語などの「古典文学に描かれた恋への感動と、従来のたてまえ的な勧善懲悪の文学論に対する不満」(日野「解説」521頁)は、書を読み歌を作り始めた二十歳前後からあったと思われます。そして、宣長は「物のあわれ」という日常の言葉を通じて古典文学をとらえようとする。日野は、宣長のその動機を、こう推定しています。

「多分、自分の感動は正当で、従来の文学論はどこか間違っているという直感を、自分で納得のゆくように論理化してみようということであったであろう。」(同上)

469.  宣長の時代の「たてまえ的な勧善懲悪の文学論」または「従来の文学論」がどういう人々のどんな議論なのか、日野の「解説」には具体的な例示はありませんが、宣長が同時代のどういう状況に反撥を覚えたのか、大体は推定できます。丸谷才一が活写するところによれば、それはこんな状況だった。

「彼〔宣長〕の生きてゐる十八世紀後半の日本では、中国文学の趣味が圧倒的に支配的だったのです。徳川家康以来の文治政策で、儒教が奨励されてゐた。中国の本を読むのが知識人のすることで、さういふ人はまた漢詩を作つた。大名から侠客まで、ちよつと気のきいた人なら漢詩を詠むのが江戸後期の文化でした。普通、日本の古典は大衆文化の題材としてしか見られてゐなかつた。『小倉百人一首』が歌かるたであり、『平家物語』や『太平記』が歌舞伎に仕組まれる。さういふものだと思はれてゐたので、文学などといふ、そんな面倒くさいものではなかつた。そして宣長以前の国学なんて、そんなもの、いや、宣長以後にしたつてさうだけれど、田舎の旦那衆の暇つぶしにすぎなかつたんです。」*

宣長の生きた時代には、漢詩漢文は知的なものだが、和歌和文は大衆向けの娯楽にすぎなかった。二者の間にははっきりした差別があった。時代の常識は、和歌や物語には漢詩漢文と比べものにならない低い位置しか与えていなかったわけです。

注*: 丸谷才一『恋と日本文学と本居宣長・女の救はれ』(講談社文芸文庫2013)pp.66-67。

470.  宣長は、自分が打ち込んできた歌や物語の真価を世に知らしめるためには、時代の常識に抗して、ひいては大名から侠客までの知的な人士全体を敵に回して、論陣を張らねばならなかった。和歌と和文の世界は、「田舎の旦那衆の暇つぶし」などではなく、まったく逆に「自分の感動は正当で、従来の文学論はどこか間違っている」ことを明らかにせねばならなかった。そのための出発点は、おのずと自分の日常の心の動きを肯定するところに置かれることになった。日野の言葉を引けば、

「宣長はとりあえず「物のあわれを知る」――他人の切実な感情に共鳴する――ことを大切にするという、ごくありふれた物の考え方を手がかりにした。その理論は、「物のあわれを知る」とは、悲しいはずの事に対しては悲しがり、おかしいはずの事に対してはおかしがる、素直な心の動き方のことであるという、平凡とも見える規定から始まる。」(日野「解説」521-522頁)

始まりにあるのは、「人の哀れなることを見ては哀れと思ひ、人の喜ぶを聞きてはともに喜ぶ」(『紫文要領』84頁)という日常的な姿勢の肯定だったわけです。

「物のあわれ」と漢文学批判
471.  日本の歌や物語は「物のあわれ」に動かされる抑えがたい気持ちを表出するものなのだから、漢籍の説く善悪の規準とは異なる価値基準を備えている。宣長のこの見解は、結論だけはすでに紹介しました(460)。この結論へいたる理由づけは、こんな風に述べられています。

472.  中国の書物はどんな書物でも、「とかく人の善悪をきびしく論弁して、物の道理をさかしくいひ、人ごとに我賢われかしこにいひなし」ている。漢詩も日本の歌とは違って、人の気持ち(「人のこころ」)を表現していない。これに対して、日本の物語は、どこか頼りなくとりとめなく、すこしも利口ぶって賢そうなところはないが、「とかくに人のこころのありのままをこまかに書き出だせり。」
 そもそも人の心というものは、本当は、どんな人でも愚かで未練なものだ。それを隠すから賢そうに見えるのだが、本当の心のうちを探って見れば、誰もかれも女子供のように弱々しく頼りないものだ。中国の書物は、「それを隠して、表向き・うはべの賢げなるところを書きあらはし、ここ〔日本〕の物語は、その心の内のまことをありのままにいへるゆゑに、はかなくつたなく見ゆるなり」。こういう点で中国とわが国の文章の書き方は違っている。異国の書によってわが国の物語をとかく論ずるのは、作者の本意に適っていないことが、この一点でわかるのだ。(『紫文要領』67-68頁抄訳)

473.  単純化すれば、中国の書物では、善悪と物の道理がきびしく論じられており、賢そうである。日本の物語には、人の気持ちの愚かで未練な様子がありのままに書かれている。人の心の奥は愚かなものであるから、中国の書物は本当の気持ちを隠してうわべのところを賢そうに書いてあるだけだ。日本の物語には心の中の本当の気持ちが書いてあるのだ。これだけのことです。

474.  とはいえ、源氏の君など物語の男たちは、心弱く未練がましくめそめそしていて、男らしくない。それでよいのか、と問われるなら、

大方おほかた人のまことこころといふものは、女童をんなわらはのごとく未練に愚かなるものなり。男らしくきつとして賢きは、まことこころにはあらず。それはうはべをつくろひ飾りたるものなり。」(『紫文要領』202頁)

女性性に対する差別的表現が耳ざわりですが、宣長は、男らしくてキッとしているなんてことの価値を認めない。そんなものは、うわべのとりつくろいに過ぎない。武士が戦場で討ち死にしたことを物語るとき、その表向きの振る舞いを書けばいかにも勇者のように聞えて立派かも知れない。だが、

「その時まことの心のうちを、つくろはずありのままに書く時は、故里ふるさとの父母も恋しかるべし、妻子もいま一度見まほしく思ふべし。命もすこしは惜しかるべし。」(『紫文要領』203-204頁)

故郷の父母も恋しいだろう、妻子にももう一度会いたいだろう、命だって少しは惜しいに違いない、というのはまことにごもっともで、これが人情というものでしょう。

475.  歌も物語も「人のまことこころ」を隠さず、とりつくろわず、愚かしい振る舞いは愚かしいままに描くところに価値がある。これに対し、「もろこし書籍ふみはそのうはべのつくろひ飾りて努めたるところをもはらもっぱら書きて、まことこころ書けることはいとおろそかなり。」(『紫文要領』202頁)

476.  宣長は、漢詩漢文がうわべを飾るばかりで、感情の自然な流露はおろそかにすると言う。この包括的な批判については、それはちょっと違うんじゃないかと思います。宣長も『詩経』の古い詩篇や、唐代でも白居易の詩などには価値を認めていて、中国にもよい風情のものがあると言っている(『石上私淑言』第六九項 417-418頁)。

477.  しかし、宣長が特に深い関心をもっていた恋愛については、中国文学では恋愛感情の文学的表出が好まれないというのは当たっているようです。再び丸谷才一によると「たとへば『唐詩選』四五六首のうち、遠征中の夫、遠国にある夫を思ふ詩は数種あります。女が夫を思つてゐるか、恋人を思つてゐるか、どうとも取れるものも二首ばかり。遊女が旅人に呼びかけるものが一首。しかし明白に未婚の男女の仲を詠じたものは一首もない。」(丸谷才一、前掲書(469)p.24)

478.  漢詩文を批判するにしても、中国の文学は恋する気持ちを率直に述べていない、その点ひどくとりつくろっている、という程度に留めておけばよかった*。それならば、批判は正鵠を射たものだった。でも、宣長は、漢詩文が感情を率直に表現しない理由を執拗に考え続けたようです。その結果、かなり突拍子もない方向に議論が進んでしまう。その一節を紹介しておきます。

注*: 大野晋は、結婚、離縁、再婚をめぐって、宣長自身におそらく苦しい恋の体験があったと推定しています(大野晋「語学と文学の間 ―本居宣長の場合―」『図書』岩波書店刊 1978年 6 月号、大野晋『語学と文学の間』岩波現代文庫 2006 所収)。それが漢文学に対する強い反撥につながった、というのが丸谷才一の説(丸谷才一前掲書)。そうかもしれません。

479.  大体、人はどんなに賢くても、心の奥を見れば、女子供と特に違わない。すべて頼りなく女々しいもので、それは中国でも同じことであろう。それなのに、「かの国は神の御国にあらぬけにや、いとかむよりして、よからぬ人のみ多くて」道にはずれた振る舞いが絶えない。ともすれば人民を傷つけ国を乱し、世の中が平穏でない時が多かった。それを鎮め治めるために、万事に心をくだき、考えをめぐらして、改善の方法をあれこれ探し求めているうちに、自然と賢くて知恵の深い人も出てきた。それでいよいよ万事につけ、「さるまじきことにもいたく心を用いて、目に見えぬ深きことわりをもあながちに考へ加へなどしつつ」、ちょっとした行動にも善悪を弁別して論ずることを立派なことと考えて、自然とそういう風儀の国柄になった。それで、誰もがみな自分こそ賢くあろうとするので、本当の気持ち(「まことこころ」)の頼りなく女々しいことは、恥じて隠し、言葉に表さず、まして書籍などには端正でもっともらしいことだけを硬直して書いて、頼りないところは仮にも見えないようにしている。「げに国を治め人をみちびき教へなどするにはさもありぬべきことなれど」、これはみな作って飾ったうわべの気持ちであって、本当の心のありさまではないのだ。(『石上私淑言』第六六項 408-409頁抄訳)

480.  これはずいぶん偏った議論です。最初に、人の心の奥底の気持ちは、いつの時代のどの社会の誰でも大きくは違わない、という立場が前提されている。とりあえず、これには異論はない。しかし、日本は天照大御神の生れた神の御国だが、中国はそうでないので、そのせいか古くから悪い人物が多い、というのは受け入れられない。

481.  わが国は太陽が生れた神の国であるというのは、宣長にとって疑いのない事実でした。儒者との論争の書「くず花」では、「日ノ神は即チ天つ日にまします御事は、古事記書紀に明らかに見えて、疑ひなきを……」*と言っています。彼は、文字通り、大真面目に、天照大御神は天体としての太陽それ自体であり、したがって太陽という天体は日本で神として生まれたのだと信じていた。石川淳の評を借りれば、宣長の考えはこのあたりキツネがついている**。その偏執を根拠にして、中国をけなしています。立論は一方的で、宣長の理想とする神代のおおらかさとはほど遠い。

注*: 「くず花」上、野口武彦(校注)『宣長選集』筑摩書房(筑摩叢書301)1986所収、77頁。なお、同書の野口武彦による解説「本居宣長の古道論と治道論」23頁も参照されたい。
注**: 中村幸彦、石川淳、野口武彦、「鼎談〝物のあはれ〟について」 石川淳(責任編集)『日本の名著 本居宣長』(中央公論社1970)付録12(月報)。

482.  中国には賢い人も出た。だが、そのせいで、考える必要のない事柄についてまであれこれ考えて、目に見えない道理を強引に立てるようになった。この非難は、抽象的・普遍的な原理への嫌悪が現れています。だから些細なことにも善悪を弁じ立て、皆が賢くみせようとするばかりで本当の気持ちを表現しない。国を治め人を導き教えるなどの場合は、そんな硬直したもっともらしさがあってもよいが、これはみな作って飾ったうわべの気持ちである。こう非難する。

483.  宣長の漢文学批判は、こうして中国の人と文明をけなす方向にどんどん進んでしまった。宣長の著作には、随所でこの種の偏狭な中国嫌いが出現します。うんざりさせられる。宣長が、今も参照される『古事記伝』を著した優れた古典文献学者であり、文学の道徳からの独立を説く鋭い文学理論家*でありながら、同時にはなはだ見苦しい中国嫌いであるという事実は、日本の人文学の大きな不幸であると思わないわけにはいかない。

注*: 宣長の神道説を「キツネがついている」と評した石川淳は、「物のあはれ」の説については、「あれは立派な文学論だ。あれだけの文学論は得がたいと思うくらい、いい文学論だ」と語っています(前掲書(481))。

484.  宣長の中国嫌いについては、加藤周一の『日本文学史序説』に的確な批評があるので、それを挙げておきます。

「彼〔宣長〕の時代の知識人の言語は、一般に儒学に由来し、殊に朱子学的であって、武士社会と密接に結びついていた(幕府または藩の高等教育機関の圧倒的多数は、十八世紀の前半に、ほとんど町人の子弟を受け入れなかったし、同じ世紀の後半にも学生の大部分は武家の子弟であった)。町家の宣長は、儒を私塾に学んだ。そして武家社会の「イデオロギー」としての儒学と彼自身の学問的自己とを同定できなかったにちがいない。そのことと、彼の思想の全体がいわば儒教に対する反措定として表現されたこと、またその一貫して激しい儒教攻撃が挑撥的な論戦の調子を帯びていたことは、関連していたはずである。宣長は単に儒者や浄土宗徒に向けて儒仏の思想を批判したのではなく、彼自身の裡なる儒仏的要素を、知的自己同一性確立のために、排したのであり、まさにその故に、執拗かつ戦闘的にならざるをえなかったのであろう。」(加藤周一『加藤周一著作集第5巻 日本文学史序説 下』(平凡社1980))pp.175-176)

趣旨は明らかと思いますが、『源氏物語』や和歌に惹かれる自分は何者なのかを明らかにするために、宣長は、武家社会のイデオロギーである朱子学を批判し、自分自身のなかに食い込んでいる儒教や仏教(祖父も両親も浄土宗の熱心な信徒)の教えを執拗に攻撃せざるを得なかった。そう考えれば、主張の偏狭さや根拠の薄弱さも多少は大目に見てやりたくなります。ですが、それにしても、という印象はぬぐえません。自己確立が異国嫌い(排外思想 xenophobia)と結びつく宣長の偏狭は、現代日本語人にも見られる自己認識の弱点であると思われます。

485.  話をもどすと、元々、宣長は儒仏の教えと「物のあわれ」の棲み分けを主張していました。文学の世界では物のあわれを知ることが善悪の規準だが、現実世界では儒仏の教えが規準になる(460)。ただし儒仏のうち、言及が多いのは儒教です。479 に挙げた一節でも、儒教を治国の原理とすることを一応認めています。しかし、その治国の原理は、うわべを飾ってとりつくろう偽善である。そう批判している。

486.  宣長の考えを明快に述べれば、悪人の多い中国のような国では、偽りの理屈でむりやり治める必要があった。だが、わが国は天照大御神の生れた国で、他国に優れて立派な国であるから、人の気持ちも振る舞いも言葉も素直で上品であり、天下は穏やかに治まって来た(『石上私淑言』第六八項 414頁、上掲461)。それゆえ、そういう偽りの理屈は要らないのだ。こういうことでしょう。

487.  こうなると、もはや、儒教の教えと「物のあわれ」の棲み分けは必要ないことが分かります。わが日本国では、国を治めるために儒教のような偽りの理屈は要らない。「物のあわれを知る」心だけでよい。なぜなら、神代の心を失わない天照大御神の御国においては、「人のまことこころ」だけで、穏やかに天下が治まって来たという〝歴史的事実〟があるからです(日野「解説」536頁)。

488.  宣長の思い込みにおいては、日本国の本来のあり方として、人は自分の心の内なる情緒の動きをありのままに表出し、それを見聞きする者は「ああ、あはれ」と感じてそれに動かされ、世の中は穏やかに治まる。こういう理想状態が理論的に打ち出されていると見ることは可能です。

「かくして、「物のあわれを知る」心は、文学を越えて、人間の生き方全般にわたる規範にまで膨張した」(日野「解説」536頁)。

この世界では、儒仏の教えは不必要で、「物のあわれを知る」心が唯一の規範となるわけです。

「物のあわれを知る」生き方の帰結
489.  以上のようにして、神代の心を受け継ぐ日本国においては、あるいは、日本国においてのみ、「物のあわれを知る」ことを生き方の原理とする立場が成り立つはずだ、ということになりました。この社会では、「物のあわれを知る」ことの一種としての恋愛感情は、どのような運命をたどるのか。特に、社会規範と衝突する不義の恋はどうなるのか。これについては、日野「解説」が、宣長になりかわって回答を試みているので、それを示します。

490.  「まず日本人は素直で、中国人のように好色でないから(『石上私淑言』第七五項 427頁参照)、いたずらな淫乱の気持で人妻に恋慕するというような事態はそもそも発生しない。あるとすれば、「物のあわれを知る」人なら共鳴せざるを得ないような、よくよくの場合である。その場合でも、日本人は雅やかで、「情」と「欲」の区別を知っているから(同第七二項 420頁参照)、その思いを情緒のない即物的な形で遂げようとは欲しない。例えば……〔中略〕……歌を詠じただけでその思いが晴れるということもあろう。罪が犯されてしまったら、当事者たちは素直に恐れつつしみ、周囲の人々は、源氏と朧月夜の密通を知った朱雀院のように、柏木と女三の宮の密通を知った源氏のように(『紫文要領』157頁 7~10行目参照)寛容に扱い、事は穏やかに処理される。」(日野「解説」543頁)

491.  「中国人のように好色でない」というのは、「色好むことは、昔も今も此処もかしこもただ同じことといふ中に、歴代よよ唐書からぶみを見るに、かの国はいますこしみだりがはしきこと多く見えたり」(『石上私淑言』第七五項 427頁)にもとづきます。「「情」と「欲」の区別」は、「情」は物のあわれを感ずる深い思い、「欲」は対象を欲しがる浅い思い、ということですが、「情のかたの思ひは物にも感じやすく、あはれなることこよなう深き……欲のかたの思ひは一筋に願い求むる心のみにて……深からず」(同上第七二項 421頁)にもとづきます。

492.  要は、「物のあわれを知る」日本人は、軽はずみに淫奔な振る舞いはしない。不義の恋が生じるのは、よほどの深い事情がある場合である。そんな場合には、周りも「物のあわれを知る」人ばかりでその事情の深さがよくわかるから、事は穏便に済まされる。かくして、不義の恋は大きな問題にならない。

493.  上のような社会は、私には、情緒的な相互束縛によって自分と相手の行動を抑制することで成り立っているように見えます。人々は予定された調和のなかに閉じ込められている。なんだか息の詰まるような社会です。

494.  このとき、不義の恋は、ほとんど「不義」と認められることさえない。何ごともなかったかのように処理される。「物のあわれを知る」ことは、宣長において一つの理想だったわけですが、その理想に沿った社会は、動きを止めた世界のように見えます。どうしてこうなるのかについては、私なりの考えがありますが、それは後で(次回に)述べることにしましょう。

495.  日野は、ここで二つの問題を指摘します。第一は、そんな社会は本当に存在しうるのか、第二は、そういう社会をよい社会と本当にいえるのか。

496.  第一の問題は、宣長のいう神代という歴史的事実は本当に事実なのか、また、そういう古代を復活させることができるのか、という問いに帰着します。答えは簡単です。古事記の記載は事実ではない。「したがってそういう古代を復活させることは不可能」(日野「解説」544頁)というしかありません。

497.  日野は、宣長の理論形成上で、神道が果たした役割を十分に認めています。日野の紹介する当時の神道説(日野「解説」525頁)は、丸谷がいうように「田舎の旦那衆の暇つぶし」の水準の怪しげな説を含みますが、宣長が漢文学を全否定することができた理由の一つは、やはり「江戸の中期に神道が興隆して、とにもかくにも儒仏の権威を相対化した」(日野「解説」525頁)ことにある。とはいえ、いかんせん、日本は太陽の生れた国であって他国より立派な国だという宣長の考えを受け入れることはできません。

498.  第二の、神代の心を受け継ぐ社会はよい社会のなのかという問題に対して、日野は、宣長自身の言葉を通じて、よい社会ではないことを示しています。根拠になるのは、『石上私淑言』の第九三項です。この項は、古今集の序に書かれてあることを宣長が受け入れないのはいかがなものか、先達の言葉はそのまま受け入れるべきではないのか、という問いかけに答えたものです。

499.  宣長は、歌道において、秘伝などと称してつまらぬ説が無批判に受け入れられているのを批判し、ここではむしろ中国人の議論癖をよしとする。

「人の国〔外国即ち中国〕には、古への人のいへることも、あやまりあればはばかることなく幾たびもさらに考へて、後の世によき説の出で来ること多し。人賢くて学問をよくするゆゑなり。」(『石上私淑言』第九三項 477頁)

この第九三項で、「宣長は……いうところのわが国の素直で穏やかな民族性が、物事を論理的に吟味する知性を欠くこと、また与えられたものをそのまま受け入れてしまって、伝来の説の誤りを正そうとする主体性を欠くことに、明らかに苛立っている」(日野「解説」544-545頁)と日野は指摘します。

500.  つまり、「「物のあわれを知る」心の否定的側面が、ここで、はしなくも宣長自身によって暴露されている」(日野「解説」545頁)のです。以下、日野の言葉です。

「「物のあわれを知る」心とは、悲しいはずの事に対しては悲しがり、うれしいはずの事に対してはうれしがり、感ずべき事に対しては素直に感ずる心であった。物事をありのままに受け取らず、批判的に吟味する儒教的思考法は、この心ともっとも縁遠いものである。不義の恋を見聞きしたら、事の善悪の判断を停止して、ただその恋の哀切さに涙するのがよい。日月の運行を始めとする大自然の営みに触れたら、そこから物理を抽象しようなどと意欲せず、ただその神秘に感動するのがよい。このような形で要約してみれば、「物のあわれを知る」心が、知性を欠き、批判精神を欠き、主体性を欠いた精神であること、人間の価値を十分には発揮していない精神であることは明瞭である。「物のあわれを知る」心の持主ばかりで構成される社会は、よい社会とは決していえないのである。」(日野「解説」545頁)

501.  物事をあるがままに受け取って、吟味も議論もしないならば、事の善悪の判断は停止せざるを得ない。不義の恋について何をどうすればよいのか、知性によって、批判的かつ主体的に判断し、行動することなど思いもよらない。人々は、動きの止まった息詰まるような世界で、予定された調和に「ああ、あはれ」と感動することしかできない。こういう精神を、日野が「人間の価値を十分には発揮していない」と評したのはもっともです。が、こういう世界が現出してしまうについては、何か宣長のものの考え方と議論の立て方そのものに、それをもたらす原因があるはずです。次回は、そのあたりについて論じたいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?