無関係で善良な… 《変わらない一日》をアーカイブでみること
坂本光太さんのリサイタル「暴力/ノイズ/グロボカール」にて日本初演されたグロボカール作曲《変わらない一日》(1975)のアーカイブ映像を、遅ればせながら拝見した。
実際に起こったクルド人弾圧事件を基に構成されたシアターピース。
それぞれの楽器が明確に役割を与えられていて、物語として理解しやすい。
目を背けたくなる暴力的なバスクラリネットと打楽器、暴力に無頓着なチューバとエレキギター、見せしめとしてのチェロ、錯乱していくソプラノ。
権力によって踏みにじまれる人の生と法。
権力はしばしば暴走し、私たちの命と尊厳、法や言語をも捻じ曲げる。
バスクラリネットやチューバの声なき声のような呻きは、まさに自らの発言や法の解釈を都合の良いように捻じ曲げ、言葉をなおざりにする為政者の態度を思い起こさせる。
そして、それらの声なき声や直接的に暴力を想起させる打楽器の音は、ソプラノの命を踏みにじっていく。
この作品、1975年に作曲されたものであるが、東京入管局の事件やBlack Lives Matter 運動につながる白人警官による黒人への不当な拘束など、現在私たちの周りで起きている事件を直接的に思い起こさせ、かなりアクチュアルな求心力を持っている。(逆に言えば45年後を生きる私たちは何一つ変わってないということであるが…)
なぜ権力は暴走するのか、そもそもなぜ権力というものが生じるのか、考えざるをえない。
また、暴走する権力を目の前にいかに私たちの身体は無力で、無関心かということも。
《変わらない一日》において最後に朗読される告発の手紙。誰もその声に関心を抱かない。
私たちは常に権力を監視しなければならない。そうしなければ権力は権力者の都合の良いように解釈され、行使されてしまう。
なぜ私たちはこんなにも権力に疎いのか。
2020年、全世界に蔓延しているコロナウィルス。感染してしまうのは感染者の不注意で自己責任であるという考えを持っている日本人が多いという統計結果がでたらしい。(参考:https://toyokeizai.net/articles/-/359651)
「ライブハウスなんかに行くのが悪い。キャバクラやホストクラブに行ってるのが悪い。」
自己責任論を内面化する市民は為政者にとっては便利である。ライブハウスや夜の街をスケープゴートにしてしまえば、自分たちの対策の不誠実さを隠すことができる。
もしかしたら「善良な」市民は《変わらない一日》を見てこう思うかもしれない。「拘束され、尋問されるのも悪いことをしたからであって、自己責任である」と。
「善良な」市民は権力によって都合の良い、何が良いことでどう生きるのが良いことなのかを刷り込まれる。
《変わらない一日》でインパクトがあるのは、暴力を振るう打楽器やバスクラリネット、暴力を振るわれ死におい込まれるソプラノである。
しかしその実、周りで何もできずに見ることしかできない聴衆や無関心な喧騒であるエレキベースこそがこの作品の主役かもしれない。
私たちは作品の演奏中に声をあげたり演奏者や他の聴衆の邪魔をしてはいけないと思うように、実際にこのような場面を間近に見ていても声をあげたり権力の邪魔をしてはいけないと思うかもしれない。
権力によって死におい込まれる人ではなく、権力を内面化してしまう人。
(その点において、実際にこの公演を妨害したり邪魔しようと思った人はいなかったのだろうかと思ったりしたのだが…)
この作品において、打楽器とクラリネットが暴力的な音響であればあるほど、ソプラノの声が錯乱していけばいくほど、聴衆の行儀の良さが際立つ。これはBUoYという場所性、また、この公演を映像で見ているからというのもあるだろう。聴衆もシアターピースに組み込まれているように見える。
さらに言えば、その光景を、安全で無関係なところからディスプレイ越しに視聴している私はより滑稽であろう。《変わらない一日》で提示される事件と現在のコロナの問題を並走して考えれば、ウィルス感染のリスクも負わずに、拘束されるリスクも負わずに、安全なディスプレイ越しに視聴しているのである。
この公演を実際に見に行かず、後から映像で視聴するというアティチュードの無関係さはより一層際立つ。(言い訳をさせてもらうと、本当に見にいきたかったのだが、帰国のスケジューリングでどうしても伺えなかった…)
この作品を映像で見終わった私は、いつもと変わらない日常に不意に戻る。そしてカフェを出て、感染予防というよりは善良な市民を演じるために、外を歩くのにマスクをつけて家に帰るのである。そして変わらない一日が続いていく。