歌がうまれるとき 西村聡美(アートマネジメント)(小宮知久個展「わたしに奇妙な歌を歌わせてください」制作ノート)
2024年3月15〜17日に開催された小宮知久個展「わたしに奇妙な歌を歌わせてください」(Retramp Gallery, ベルリン)の企画制作を担当した西村聡美さん(アートマネジメント)の制作ノートを公開しました。
歌がうまれるとき
西村聡美(アートマネジメント)
“声(こえ)”とは本来、人間などの動物の咽頭から発せられる音とそのひびきを指す。しかしながら実際は、その現象だけでなく、人間による語の発話や、意見表明およびその手段、あるいは個人の社会的態度にまで語義が侵食、派生している。個々の身体に備わる固有の“音”である声は、コミュニケーションというメディウムの俎上では否応なく何らかの意味を帯びてしまう。また個々の声は、同じ言葉や旋律を重ね合わせることができるが、決して同一にはなりえない。したがって“声”には、個別の差異がもたらす特権性が含まれる。
小宮知久は、2024年3月にベルリンで開催した個展「わたしに奇妙な歌を歌わせてください」において、《VOX-AUTOPOIESIS》と《そして、O-renはそれが歌であることを知った》の2作品を発表した。
ベルリンのノイケルン地区にある展示会場は2つの部屋に分かれている。会場入口では、向かって正面と右側の、90°で隣接した2つの壁にかかるように、《VOX-AUTOPOIESIS -Ghost-》(2016/2022)の一部である五線譜がプロジェクションされている。本作品では、あらかじめ録音された女声のヴォカリーズが、部屋の中央に設置されたスピーカーとマイク、そしてコンピュータ上のシステムをとおして循環する。スピーカーから発せられた声は会場内の環境音とともにマイクで取り込まれ、システムによって壁面の五線譜へと記譜される。さらに、このシステムは声に変調をもたらし、それによって変奏されたヴォカリーズは再びスピーカーへと出力されていく。
本作品における人間の声は、スピーカー、マイク、コンピュータ・システムを経由した、再帰的かつ永続的な循環によってエラーを伴う変奏を繰り返している。そして次第にその“声”は“音”へと還元される。言い換えればそれは、“声”から「意味」と「意志」を引き剥がすプロセスである。
同室内には、関連作品として《VOX-AUTOPOIESIS V -Mutual-》score(2021)も展示されている。《VOX-AUTOPOIESIS》のシステムを用いて実施したかつてのパフォーマンスの記録が、50mの感熱紙に楽譜として出力され、天井からそのまま床へと垂れ下がっている。(あるいは、床の上で溢れた楽譜が天へと立ち上っているようにもみえる。)
楽譜は一般的に、再現可能な音を記録するための媒体であると見做されるが、ここではあくまでも行為の痕跡としてのみ存在している。
システムとパフォーマーによる戯れのアーカイブとしての楽譜は、作曲者の作為から音を解放する。また、ここに記されている音列は、鑑賞者(読み手)による既存の音楽的解釈やそれに伴う価値判断から逃れている。
もうひとつの部屋では、《そして、O-renはそれが歌であることを知った》(2024)(以下《O-ren》とする)が展示されている。部屋の入口正面の壁には、剥き出しのプログラミング言語と英語のテキストによる二段の文字列が投影され、投影面の左右それぞれにスピーカーが設置されている。また、部屋の入口から向かって左側後方には詩が掲示され、詩の隣にあるもう1台のスピーカーからは、その詩を朗読する(男声の)人工音声が流れ続けている。
鑑賞者/パフォーマーが部屋の中央に設置されたマイクへ話しかけると、コンピュータ上のシステムはその音声を英語で認識し、プロジェクションされた画面にテキストとして表示する。さらに、その表示されたテキストを発話する(女声の)人工音声が、左右のスピーカーから流れる。ところで、この作品も《VOX-AUTOPOIESIS》と同様に、会場内の環境音や他のスピーカーによる音の影響を受けることから、マイク越しの発話を必ずしも正確には認識しない。
本作品には、人工音声が読み上げるテキストをコンピュータのシステムが認識することで、新たなテキストと音声を生成し続けるという自動化された再帰性だけでなく、鑑賞者/パフォーマーが画面上に表示されたテキストをマイクに向かって読み上げる別様の再帰性、あるいは鑑賞者/パフォーマーによる、再出力された音声への応答または新たな語の発話といった、規定された再帰性からの逸脱のように、システムに対する作用のバリエーションがいくつか与えられている。
《O-ren》における発話行為は、《VOX-AUTOPOIESIS》における声のそれと共通するように、特定の目的を持ったコミュニケーションではなく、作品システムと鑑賞者/パフォーマーによる、発語それ自体の戯れである。ここでも言葉の意味やテキストの文脈といったものは剥奪され、ただの“音”へと還元されていく。
また別の見方をすれば《O-ren》では、言葉との出会いなおしについても想起させる。マイクに入力される発話をただ音声として認識しつつ、一方でエラーを伴いながらテキストへと変換、別個の新たな音声として再出力するという機序は、言語学習におけるシャドーイングのように捉えることもできる。幼い子どもが、覚えたての言葉を用いて現前の存在を指し示し、その存在と発話行為自体を喜ぶように、この作品では、声を用いた他者への呼びかけという、相互関係における原初的・根源的な欲求を思い起こすことができるだろう。
小宮は、スティーヴン・ミズンによる著作『歌うネアンデルタール:音楽と言語から見るヒトの進化』(熊谷淳子訳、2006、早川書房)を展覧会のステートメントに引用し、言葉と音楽が確立する以前の、未分化な音声コミュニケーションを本展の着想としていた。
《VOX-AUTOPOIESIS》では“声”を“音”に還元し、楽譜というメディアから音楽を解放する。一方《O-ren》でも、発話を“音”へと還元することで、文字によるテキストから言葉そのものを浮かび上がらせる。音楽と言葉はこれらふたつの作品をとおして、それぞれの原初の姿へと遡行していく。
“歌”には、音楽と言葉、ふたつの言語が並存している。
もしもそれら言語との戯れ、あるいはその戯れに向かう欲求によって“歌”が起こるのだと仮定すれば、本展はまさに、歌をうたうという行為そのものについての試行である。
《O-ren》制作におけるアイデアのひとつである《セイキロスの墓碑銘》は、現存する世界最古の楽曲とされる歌である。この楽曲は、詩と旋律を表す記号が併記されるかたちで墓石に刻まれており、言葉と音を指し示したそれぞれの言語を読み手が読み解き、組み合わせ、身体を経由させることで、複層的言語として“歌”が立ち上がる。
人工音声と人間の声はともに歌をうたうことができるだろうか。
外部から入力された情報をもとに言葉や音を発する人工音声と、他者あるいは自己への呼びかけとしての人間の声、このふたつの“声”は性質を全く異としている。しかしながら、小宮の作品が介在し、一度それぞれが単なる“音”へと還元されることで、異なるふたつの“声”は意味や文脈といったものから逃れ、並存が可能となる。このことは、複数の“声”の戯れによる、新しい“歌”を生み出す可能性を内包しているともいえるだろう。