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教科としての音楽ではない「音楽」

ある朝、夜明け前に目が覚め、たまっていた数日分の日記を書いていると(もはや日記ではない・・)、まだ暗いのに隣の学生部屋から陽気なチェワ語の歌が聞こえてきた。学生部屋は自分の部屋から、洗濯物干しスペースを隔てて約3mの距離にある。1人がメインで歌い、周りの3~4人がメインに掛け合いながら歌うスタイル。聴いていて幸せな気持ちになるくらい、楽しげに歌っている。

マラウイでは楽譜をきちんと読める学生は少ない。教員養成大学の学生たちは、小学校で先生として教えねばならないから改めて楽譜について学ぶが、8分音符2つ分で4分音符になることなど、あたかも初めて学ぶかのような反応だ。

楽譜の学習はカリキュラムにはあるが、楽譜について教えられる先生が少ないから、結局よく分からないまま大学まで来てしまっている学生が大量発生しているのだ。教科書自体、配布されないこともあるから、音符というものを目にする機会は圧倒的に少ない。日本では小学生でも理解している音符の知識を、マラウイの大学生たちは持ち合わせていない。

それでも彼らは「音楽」をしている。教会では素晴らしいゴスペルを歌うし、村に行けばそれぞれの部族の踊りと歌がある。

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音楽は「教科」というより「生活」や「文化」といった方が近い。

「音」を「楽」しむために音楽があるのだとすれば、その目指すべきは、あの朝、自然発生的に歌い始めた学生たちの姿にあるのではないか。歌いたい気持ちだから歌う。逆に歌いたくない気分の時には歌わない。そこに同調圧力はない。音符の知識もない。

マラウイにいる間に何度も考えた。「果たして、彼らに音楽の教科書の知識は必要なのだろうか」と。すでに本当の音楽をしている彼らに、何かを付け足す必要はあるのだろうか。

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マラウイの「表現芸術科 Expressive Arts」という科目には音楽のみならずダンスもあり、教科書にも、「部族の伝統のダンスを踊りましょう」とある。

日本だったら、「みんなで踊ってみましょう」と、さして踊りたくもない踊りをみんなと一緒に踊ることになるかもしれない。しかし、マラウイでは、それぞれの部族に伝わる歌や踊りは、その部族しか歌ったり踊ったりしない。「さあ、一緒に歌って踊りましょう!」とはならないのである。

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自分の部族の歌や踊りは、村で小さい頃から見よう見まねで身につけ、踊って歌ってきたものだから、同じ部族の者同士で少し打ち合わせすればすぐに発表できてしまう。他の部族のものは見ているだけだ。

授業中学生に、「せっかくだからみんなで踊ればいいのに」と提案したら、「私はその部族ではないので踊りません」ときっぱり断られてしまった。その言葉には、他の部族へのリスペクトと、自分の部族への強烈なアイデンティティーを感じたから、何も言い返す言葉はなかった。「みんな一緒に~」が当てはまらないこともあるし、そうあるべきではないものもあるのだ。

日本のようにビデオや録音をすぐに確認できるわけではない。YouTubeをすぐに見られる環境でもない。年長者の生の踊りや歌を目の前にして学んでいくから、そこにある空気感も含めて受け継がれていく。

音楽

これは私の勝手なイメージだが、マラウイで出会った部族のダンスには「一糸乱れぬ」という言葉は当てはまらないと思っている。良い意味でバラバラだ。足を出す角度、腰の振り方、声を出すタイミング。どれもぴったり合っているわけではない。でも全体として調和がとれる絶妙な乱れで、なぜか「ここぞ」というタイミングでぴったり息が合う。

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乱れているのに、まとまる。
矛盾していて、何のことだか分からない人は、ぜひ本物を生で見て、感じてほしい。

コピーではない、本当の伝承とは、そういうことなのかもしれない。

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↑大学の表現芸術科の授業で、部族のダンス発表に使う装飾や楽器を、身近にあるもので準備する学生たち。

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♪マラウイで学生たちと作った『かけ算ソング』→ https://youtu.be/sxxCKp_58WE

英語と現地のチェワ語で歌っています。よろしければぜひ、ご覧ください♪


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